青春は二十歳までであった

 昭和14年春、ひとりの若者が和歌山の中学校を卒業する。まだ幼い面差しをもった17歳の少年は、卒業と同時に貿易会社に就職した。勤務先は支那湖北省漢口である。ここで英国製の背広を着て、米国製の自動車に乗って夜のダンスホールに入りびたってクーニャンを口説きまくっていたそうだ。
 その後、昭和17年に二十歳の徴兵検査を受けて二等兵になる。しかし、クーニャンと遊んでいたのが功を奏した。副産物として支那語が上達していた。この語学力を見込まれ陸軍中野学校に入校することになる。要するにスパイ養成機関へ転属させられたのである。
 その若者の名は、小野田寛郎。上司からの命令を忠実に守り、終戦から29年間もの間「離島残置諜者」としてフィリピンルバング島のジャングルの中で生き抜いた。鉄の意志を持った兵士だった。
 小野田少尉が帰投する時に見せた「敬礼」の姿は見事だった。「男子としてかくあるべし」と思ったものである。42年前の今日、小野田さんは羽田空港に降り立つ。その時の「敬礼」もきれいだったなぁ……。
 後年、小野田さんの著作『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)を読んで見出しの言葉を見つけた。
 おそらく小野田さんの言うとおり、遊び呆けた「青春」は二十歳までだったかもしれない。しかし、小野田さんは帰国後、日本国になんの補償も求めずに、身の回りをワイワイと騒ぐだけのマスコミにも嫌気がさし、次兄の住むブラジルにさっさと渡ってしまう。相変わらずのバカ野郎どもは「日本を捨てた」とか「恩知らず」とか言い出す始末だが(最近は「日本死ね」とか言い出すバカもいるけどね)、そんなバカを相手にしている暇は小野田さんにはなかった。
《私は、出征するとき死を決意した。いわば私の命は原価ゼロである。まったくの幸運といわねばならない。生き残ったものは、これから働けばいいのだ。それが国に対するつとめであり、死んだ戦友への申し訳だろう》
 50代半ばに差し掛かっていた。当時なら定年の年齢である。そこから働こうという意志を持たれ、実際にブラジルで牧場を経営され成功していく。この格好のよさはいかばかりであろうか。
 遊びの「青春」は小野田さんがおっしゃるように20歳までだったのかもしれない。しかし、本当の人生の青春はブラジルに渡られてからの時期のことだと思う。
 一度だけだったが、ある講演会で小野田さんの話をお聴きしたことがある。そこにおられたのは青雲の志に燃え若い心を持つ男の人が立っておられた。
 自分が柔弱なせいか、そういった人に会うと感動してしまうんですね(泣)。