阿修羅

 零戦がまだ書庫の宙を飛んでいる。厳密に言うと「パー子」も飛んでいるのだが、それはこの際無視をしておく。
 27日に「零戦」のダイキャストモデルの話を書いた。コミックを読んでいて、小説も読みたくなってしまった。で、読んだ。解説を故児玉清さんがこう書きだしている。
《心を洗われるような感動的な出来事や素晴らしい人間と出逢いたいと、常に心の底から望んでいても、現実の世界、日常生活の中ではめったに出逢えるものではない。》
 児玉さんは、百田尚樹さん、『永遠の0』、宮部久蔵との出逢いがいかに感動的だったかを伝えるために、その前段としてこう書く。
 百田尚樹がいい作家であること、『永遠の0』が感動作であること、そして主人公の宮部久蔵が格好よすぎることなど、児玉さんと同感である。しかし、日常の中で、感動的な出来事や素晴らしい人にめったに出逢えないかというと、「それは違うでしょ」と児玉さんに言いたい。
 読書である。心を洗われる本は数多存在する。映画である。観終って、いやいや、観ている最中から、滂沱の涙を流した作品は数知れぬ。人である。ワシャは素晴らしい人をたくさん知っている。その人たちとの交流はワシャの人生を充実したものにしてくれる。だから児玉さんのように「めったに」とは言わない。
 それはそれとして、児玉さんの解説は『永遠の0』が戦争賛美でないことを明確に伝えている。
《戦争のことも、零戦のことも知らない若者たちが読んでも素晴らしい感動が彼らの心を包むであろうことはまちがいないことをここで強調しておきたい。》
「こと」がちょいと多いですね。まぁいいや。戦争に関わる小説を読んで感動させることを、サヨクは「戦争を賛美している」と言うが、賢明な若者たちは、感動しても、この作品の底流に流れる本意を必ず汲み取ってくれるはずである。児玉さんは続ける。
《本書の中では、太平洋戦争とはどんな戦争で、どのような経緯を辿ったのか、また、この戦争に巻き込まれた我々日本人は、軍人は、国民は、その間に、どのように戦い、生きたのか。》
 そういったことが一断面ではあるけれども、わかりやすく物語の中に挿入されていて、児玉さんの言われるとおり、太平洋戦争史の概観を理解するためにもいい本だと思う。
 そしてここである。
《物語は宮部久蔵の謎の人物像を戦友たちの証言によって、また姉弟の個々の心情をまじえてつまびらかにしつつ、太平洋戦争の実情、兵の命を軽んじ、作戦の失敗の責任もとらないエリート将校たちの夜郎自大さもするどく暴き》ながら話は進んでいく。
 読書家の児玉さんでも、『永遠の0』から戦争賛美を読み取ることはできなかった。ということはそもそも戦争賛美などしていないということなのである。
 小説には「阿修羅」という章がある。ワシャがもっとも好きな章である。27日の日記にも書いたけれど、主人公の孫が老ヤクザと対面するところである。ここが百田さんも一番書きたかった章ではないだろうか。コミックには描ききれなかった部品群が、それこそ磨き上げ組み上げられたエンジンのように輝いている。宮部久蔵に対する老ヤクザ景浦の想い。憎悪が仰望に変化していくさま。戦後のどさくさで、宮部の妻子が苦境に陥った時、血刀をさげて現われた阿修羅のような男が景浦であったかどうか、それは小説の中でも顕かになっていない。それが景浦でない可能性もあるが、すくなくとも宮部に関わった誰かが、妻子を救い出してくれたのである。
 戦争という極限の中で培われる深い友情、これを描いた名作だと思っている。間違っても戦争賛美作品ではない。