ピエトロ・マスカーニの歌劇《カルヴァレリア・ルスティカーナ》交響的間奏曲が聴きたいと思った。ワシャはもともとクラッシクに造詣がない。だから詳しい友だちに相談すると「図書館にあるよ」と教えてくれた。もちろん速攻で借りましたぞ。
なぜ、マスカーニの間奏曲が聴きたかったか。それは、百田尚樹『至高の音楽』(PHP新書)を読んだからである。その前置きとして……。
百田さんのベストセラー『永遠の0』は名作と言っていい。反日反戦左翼からは「戦争を美化する右翼小説」とか言われているが、まともな神経で読めば、この作品が戦争を美化などしておらず、兵の命を軽んじた太平洋戦争の実情、愚かさをきめ細かく描ききっている。「戦争がいかに空しいか」がひしひしと伝わってくるとともに、「人間って素晴らしい」と心から思わせてくれる作品だった。
読書家だった児玉清さんはこう言っている。
「人間とは、戦争とは、何なのかを痛切に考えさせられる筆者渾身のデビュー作となっている」
本題にもどる。百田さんがクラッシクファンであることはつとに有名だ。なにしろ自宅に2万枚を超えるレコードとCDを持っている。その人が書いた『至高の音楽』である。へんなチョイスであるわけがない。ベートーヴェン「エロイカ」、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第二番」、ショパン「12の練習曲集」、ベルリオーズ「幻想交響曲」などなど25曲が紹介されている。どれもいい曲であることは言うまでもない。しかし、ワシャが最も注目したのが、25曲の紹介が終わった後の、「番外編」だった。章タイトルは「『永遠の0』を書いている時に聴いた曲」である。百田さんが『永遠の0』のクライマックスを泣きながら執筆している時に聴いていたのが冒頭に書いたマスカーニの間奏曲だった。百田さんの文を引く。
《恥ずかしい話を白状すると、私はこの場面を涙をぼろぼろ流しながら書いた。キーボードを叩く指にも涙がぼたぼたと落ちた。(中略)間奏曲はわずか数分の曲だが、執筆中はこのCDをエンドレスでかけ続けた。》
ワシャは『永遠の0』で大泣きをした。本で、コミックで、劇場で、滂沱の涙を流した。ワシャを泣き虫だと思っている人もいるだろう。それくらい泣いた作品である。その『永遠の0』の執筆秘話が明かされたのである。試さないわけがない。
夕べ、食事の後に書庫にこもって、さっそくCDを聴いた。静かに始まって徐々に盛り上がっていく。いい曲だ。まさに『永遠の0』のエピローグ、主人公の宮部久蔵の葬送に相応しい曲想と言っていい。聴くだけで少しうるっときた。
次に、小説を取り出してきて、エピローグを読みながら聴いた。確かに、合う。静かな曲想の間をぬって、宮部の零戦が飛んでいる。その周囲で無数の機銃弾が爆発する。しかし零は海面すれすれを敵空母に向かって飛ぶ。そして……。エピローグは、文庫のページ数にして3ページ半である。しかし、曲も3分26秒しかなく、いいところで曲が終わってしまう。ワシャのCDプレーヤーは1曲だけエンドレスにできないので、うるうると来たところで次の曲に映ってしまう。泣けない!コミックに変えて曲を流した。分量的にはこちらのがぴったりだった。でも、「ぽろっ」くらいかなぁ。
仕方がないので、絶対になける「ヤクザ景浦介山」の章を読んだのだった。