命の教育

 先月、近くの踏切で中学3年生が死んだ。事故なのか、自殺なのかはわからない。しかし、新聞報道を見る限り「いじめ」のようなものはなかったとみていいだろう。同時期に名古屋の地下鉄で市立中学の3年生が死んでいる。これは自殺の可能性が強い。
 これらのケースとは話が別だが、ドイツなど欧米に比べて、日本の子供の自殺割合が高い。韓国のほうがさらに上をいくのだが、やはり根底に「受験戦争」というものがあるのだろう。「科挙」の残滓なのかもしれない。
 受験に追い詰められて、未来に絶望した子供たちが死を選択する。社会が悪いなどと、左筋のようなことは言いたくない。けれども、ドイツでは、10歳までの子供たちは昼には下校してしまうそうだ。午後はずっと地域で遊んでいる(もちろん全部ではないが)とドイツ通の知人が言っていた。大量の宿題、家の帰ると塾通いなどが当たり前の韓国や日本の子供たちより幸せなことは間違いない。
 確かに、受験の時期はきつかろう。遊んでばかりいたワシャだって、あの時期だけにはいい思い出はない。未だに夢に試験会場が出てきて「ハッ」として目を覚ますなんてことがあるもんね。アホのワルシャワですらそうなのだから、真面目に受験に取り組んでいる子供たちの苦労はいかばかりであろうか。
 大変だと思う。しんどいとも思う。だけど死んではいけない。明石家さんまさんがいみじくも言っている。
「生きてるだけで丸儲け」
 そういうことなのだ。生をうけて、この世で一生を送ることができる、そのことだけでも宝くじに当たったほどのラッキーな確率と考えよう。あとはそのチャンスをいかに楽しく有意義に過ごすか、ということに尽きる。
 15歳で、それも受験程度のことで、命を放り投げるのはもったいない。生きたくて生きたくて、でも病で倒れていく人は数えきれない。
 子供たちが、簡単に自分の命を絶つ、そんな社会は正常ではない。この一端に文部科学省や経済界が加担していることは明白なのだが、そのことについては章をあらためたい。
 昨日発売の「週刊ポスト」をさっそく買った。「2つ読みたいものがあれば買う」という原則に当てはまったからである。ひとつは呉智英さんの新連載が始まったこと。もうひとつは、曽野綾子さんの《高齢者は「適当な時に死ぬ義務」を忘れてはいませんか?》という記事である。タイトルはセンセーショナルだが、内容はいたってまともな話だった。詳細は週刊誌をお読みいただきたいが、その中でこんなフレーズだけ紹介しておきたい。
「日本の教育は死を教えなさすぎました。私は1984年から、何度か政府の教育に関する会議に出ましたが、その度に『死の準備教育を』と提案しました。でも、一度も取り上げられなかった」
 今の日本は、「死」を遠ざけようとする風潮が強い。「死」との距離がぎゃくに子供たちを無防備に「死」へ近寄らせるファクターになっていないか。
 欧米には宗教がある。日本の仏教は葬式仏教になり、僧侶は「死」を司るが「死」を語らなくなった。
「生きているだけで有難いことなのだ」
 ということをそろそろ社会教育として伝えていく時期になっていると思うのだが。