京風

 京都三十三間堂あたりで昼を過ぎた。ちかくにある「おばんざい屋」に入って、カウンターに陣取る。そこで、京都らしい風景を目にした。

「位打ち」という言葉がある。「広辞苑」には載っていない。ワシャは司馬遼太郎さんの『義経』で知った。
《――位打ち
 ということばがあり、不都合な権臣に対しては矢つぎばやに位を昇らせて行って、ついには人格を崩壊させ、自滅させる。このたびの義経の場合も、それに似ていた。》
 凱旋将軍である義経を鎌倉から分断しようと後白河法皇が「位打ち」に出る。このために義経はひと月ふた月のまたたく間に、無官の部屋住みから殿上人にまで達した。結果として、義経は破滅する。
 同様なことが400年後にもあった。織田信長足利義昭をかついで上洛を果たす。武力はなにも持たないが、室町公方としての権威だけはある義昭は、信長を「位打ち」にすべく「副将軍」だの「執権」という地位をちらつかせる。ところが信長は旧い統治機構室町幕府の番頭になどおさまる気はなかった。信長の目的は、そういった中世的混沌の打破であり、義昭を担いだのも、新たな天下統一にむかう途上での便宜的なものに過ぎない。ともかくも信長に「位打ち」は効かなかった。
 司馬遼太郎の『新史太閤記』に、「京都の権威」と「田舎の実力」が衝突する場面がある。上の続きと思ってもらえばいい。
 信長が公方の示す官位に、後ろ足で砂をかけるようにして岐阜に去ってしまう。信長不在の京を守れと言われたのは羽柴秀吉である。名目は「京都守護職」。とはいえ殿上人である足利貴族から見れば、なんの官位もない地下人である。土民とかわらない、と見下している。
 この京都守護職を貶めるために貴族たちは、ことさらに官位を持ち出し、室町礼法をいかめしく演じた。要は田舎者の知らない京風をひけらかすことで、恥をかかせ出鼻をくじこうという魂胆である。
 それに放った秀吉の一言が爽快である。
尾張の野人でござる。なにも礼は知らぬ、あっはっは……許されよ」
 と、礼式など無視してどんどんと公方の前に進んだのである。このやり様に武家貴族たちは度肝を抜かれた。
 こんな話もある。
 三好という四国に勢力をもつ格式の高い大名が信長以前の京をおさえていた。その後、三好を駆逐して信長が入京を果たす。その時に三好家の料理人の筆頭である坪内某が捕虜となった。この男、料理では都随一と言われており、信長はためしに料理を作らせてみた。これが不味かった。塩、醤油で煮しめたような田舎口の信長には、京風のぼんやりした薄味が合わなかったのである。「この味がわからないとは田舎者でごじゃりますなぁ」と言ったかどうかは知らないが、いけしゃあしゃあと京風を振りかざす坪内なのであった。この高慢な料理人を信長がとっちめることになるのだが、そのあたりは、『国盗物語』を読んでいただくということで。

 以上のようなことを、京都のおばんざい屋で思い出したわけだが、その切っ掛けとなった出来事を書くには時間がなくなってしまった。今日も休日出勤なんですわ(泣)。
 この続きはまた明日以降ということで。