燃えよ剣の季節

 司馬遼太郎に『燃えよ剣』という作品がある。新選組、とくに副長の土方歳三にスポットを当てて描いた青春小説といった趣の物語だ。上下2巻にわたる話の冒頭にこんなフレーズがある。
《トシという石田村百姓喜六の末弟歳三の人生がかわったのは、安政四年の初夏、八十八夜がすぎたばかりの蝮の出る季節だった。》
 八十八夜は立春から数えて88夜目、概ね5月2日ごろのことを言う。ちょうど今時分と思えば間違いない。だから『燃えよ剣』は5月の頭くらいから読み始めるのがいいと思う。
 小説では上記のように、のっけからトシ(歳三)が登場する。石田村、末弟と紹介されているから、今の行政区画で言えば日野市石田の百姓家の末のせがれに生まれたのだろう。
 この文章に続いて、歳三の運命を変える艶めいた出来事が起きるのだが、まぁそれは読んでからのお楽しみということで(笑)。

 それにしても、司馬さんは上手い。
 さりげなく「蝮の出る季節」と書くことで、多摩郡石田村の土臭い鄙の様子を活写している。読者は「蝮が出るほどの田舎なのか」と思いながら読み進めていくと、この蝮が次の展開にもつながっており、スムーズに物語の中に誘導されていく。
 そしてもう一つ、土方歳三という若者の性格の一面をも、この「蝮」で意味づけているのである。一粒で二度おいしいどころか、一文で三度も四度もおいしいんですね。

 この作品には、もちろん四季折々の京の風景や、多摩や江戸や蝦夷地の季節が織り込まれている。でも、やっぱり『燃えよ剣』は夏のドラマだと思う。5月から7月あたりにかけて読むのがよろしい。
 前半のクライマックスの「池田屋」の章である。大好きな冒頭なので少し引く。

 薪木(くろき)買わんせ
  くろき、召しませ

 大原女(おはらめ)が沈んだ売り声をあげて河原町通を過ぎたあと、その白い脚絆を追うようにして、日和雨(そばえ)がはらはらと降ってきた。
「静かですな」
 沖田総司がいった。
 絵のような、京の午後である。元治元年の六月一日。
 祇園会もちかい。

 いい文章でしょ。絵のように、風景が脳裏に浮かびませんか。

 文中にある元治元年はまだ旧暦であるから、六月一日は今でいえば7月の上旬、梅雨の頃である。梅天のあいの晴れ間に日和雨が降った。日和雨は、ドラマのエピローグでも効果的に使われおり、荒々しい新選組の物語に静かな余韻を漂わせている。

 ああ、また京都に行きたくなってしまった。