幕末

 昨日の問い「好きな時代は?」の中に「幕末」以降がもれていた。おそらく問うた人が国文学の人なので、「幕末」「明治」以降は守備範囲ではないのだろう。しかし、歴史好きという観点からいえば、その時代も充分に入ってくる。
「幕末」は「江戸時代」ではないのか?もちろん慶応4年までは徳川体制が続くので、厳密に言えば江戸であろう。しかし、時代相としては、嘉永元年(1848)くらいから、それ以前の時代と異なった様子を呈してくる。年表を見ていてもそれは顕著だ。「天保の改革」あたりまでは、国内事項がずっと列記されてくるのだが、天保に続く弘化に入ると「フランス船、琉球に来航」「オランダ軍艦、長崎に来航」「クナシリ島に守備兵を配置」「アメリカに鎖国の国法を告げる」「イギリス船、琉球に来航」などなど、やたら外国の名前や対外国の施策の事歴が増えてくる。
 また、各藩の英明な者どもが動き始めるのもこの頃であった。例えば信州松代藩佐久間象山である。彼は藩命により洋式野砲を鋳造している。これが嘉永元年。同じく象山、嘉永4年には、江戸木挽町で砲術の塾を開き、入門者が多数あったと記載されてある。長州藩は、藩士吉田松陰に海岸の巡視を命じている。幕府も江川英龍に命じて韮山反射炉の築造を進めている。これらは明らかに別の時代が動き始めた証左であった。
 この後、二百数十年鎮まっていた大和島根が「国家がひっくり返る」ほどの混乱を呈す。ペリーが砲艦でやってきて恐喝外交を始めるし、その後、攘夷を標榜する若者が立ち上がり、それらを駆逐するために安政の大獄が起きるのである。この時に、松陰は小塚原の露と消え、象山も、松陰ほど過激な思想は持ってはいなかったが、大獄に連座して蟄居を命ぜられている。
 その象山に教えを乞うべく、松陰の筆頭弟子の高杉晋作が松代を訪なっている。万延元年(1860)9月のことであった。だが、象山は蟄居中であったため、高杉の面会は叶わなかった。その後の対応が江戸期の残滓なのだが、お役所仕事には裏も表もある。幕府への遠慮で表からは会えないけれども、「武者修行で廻国中に病気になってしまった。聞けば御藩士佐久間象山先生は蘭方の大家であると聞く。是非、御診察願いたい」と、裏から手を回せば、あっけないほど簡単に面会が可能になった。そして象山と高杉は夜を徹して交流をするにいたる。象山はその時、亡き松陰について「ことを急ぎすぎる」と言って涙を流したという。
 松陰より慎重に国を開こうとした彼も、その5年後に京都三条木屋町あたりで遭難し、非業の最期を遂げる。墓所は、妙心寺塔頭の大法院に葬られた。
 象山から薫陶を受けた高杉晋作は、上記からは少し遅れる元治元年(1864)12月16日、長州藩内の「幕府恭順派」に対抗し、下関で挙兵に及んでいる。藩内クーデターであった。時代がゾロリと音を立てて動いていく。
 幕末は、わずか150年ほど前のことでしかない。そういった意味においては、日本のあちこちにその残り香のようなものが漂っている。だから「江戸時代」より好きかもしれない。