人を見る目

 大阪維新の会が、塾に集まった2000人の採点をして、その半数までに絞り込んで、正式な塾生とするらしい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120415-00000211-yom-pol
 その採点を現維新の会の議員たちがするという。おいおい、それで人材が選別できると思っているのか。ヒヨコの雄雌を分けるのにだって、熟練した技が必要だ。ことに人物鑑定するのは、極めて難しい作業である。それを現役議員だからできる。現役議員だからやらせるというのは、いささか軽挙に過ぎないか。

 維新回天の思想的指導者である吉田松陰ほどの慧眼があるなら、馳せ参じた人材の人品骨柄を見極め、峻別ができるであろう。しかし残念ながら、橋下市長を取り巻く現役議員程度の眼力では、本物の人材は救いきれまい。
 仮に、高杉晋作ほどの天才戦略家が2000人の中に混じっていたとする。松陰であるからこそ、高杉は選別され、磨きこまれ、維新に大きな力を尽くすことができた。だが、高杉のように、ふてぶてしく、渾身に異常なものをみなぎらせた、自負心の強い男を、大阪維新の会が塾生として残すことができるだろうか。
 悲しいかな、人間は自分の器以上の人材を評価することは適わない。自分の力量を超えたものを異常としか感じられないのである。並の器の議員連が、巨大な器の高杉晋作久坂玄瑞のような素材を残せるとはとうてい思えない。

 国木田独歩の小説に「富岡先生」という短編がある。「富岡先生」は実在の人物をモデルにしている。富永有隣という長州藩儒学者である。彼は江戸末期から明治時代を生きた。その稟性、極めて奇矯であり、狷介であり、人を憎むこと仇敵のごとくである。このために親類、縁者、知友からも忌み嫌われていた。
 維新後、位人臣を極めた伊藤博文山県有朋ですら、この狂狼のような老人から逃げ回ったという。
 しかし、松陰はこの人物を愛し、かつ評価している。富岡先生、その激烈な性格ゆえに獄舎につながれていた。その才を惜しんだ松陰が奔走して牢から出し、松下村塾の副塾長に据えている。
 はたして、この松陰のような人選が、己を頼むことの強い議員諸氏にできるだろうか。ワシャは難しいだろうと思っている。
 玉石混交、どちらかと言えば石の多い2000人の中で、この選考方法では数少ない玉を拾い落とすような気がしてならない。
 杞憂であればそれに越したことはないが……。