石原莞爾(いしわらかんじ)

 2日前に「法華経」に興味が出てきたと書いた。その状況から「石原莞爾」にたどり着くのは容易である。そこで石原の関連本を読んでいて、また睡眠不足になってしまいました。
 それにしても石原についての本に当たっていくと、石原の大構想のとん挫がどうしても組織論に突き当たってしまう。昭和初期の日本陸軍という組織の中で、石原はどういった動きをして、どう処遇され、そのためにどういう結果を生んだのか。満州事変から終戦までの時代――、ちょうど石原が組織の中で力をつけて成熟していく時期に合致しているのだが――その奔流の中で、石原はどういった役割を与えられ、どういった役割を与えられなかったのか、ということである。その前提として、まず石原の軍人の経歴をざっと概観したい。面倒くさい人は年表を飛ばしてくだされ。

明治22年山形県鶴岡生まれる
明治35年、仙台陸軍地方幼年学校入学
明治38年、陸軍中央幼年学校に入学。石原は、学校の勉強も優秀だったが、読書にもつとめ「戦史」「哲学」「法華経」などへの思考を深めている
明治40年 東京陸軍幼年学校を卒業、山形歩兵32連隊に配属。陸軍士官学校入校
明治42年 陸軍士官学校卒業、陸軍歩兵少尉、第65連隊に赴任(会津若松
大正2年、歩兵中佐
大正4年陸軍大学校入学
大正7年、陸大を次席で卒業
大正8年、歩兵大尉、中隊長になる
大正8年教育総監部勤務
大正9年支那派遣軍司令部付(漢口)
大正10年、陸軍大学校兵学教官
大正12年、ドイツ留学(ベルリン)
大正13年、歩兵少佐
大正14年、帰国、再び陸軍大学校兵学教官
昭和3年、歩兵中佐、関東軍主任参謀(旅順)
昭和5年支那戦線不拡大方針を立てる
昭和6年満州事変
昭和7年、歩兵大佐、陸軍兵器本廠(東京)
昭和8年、歩兵第四連隊長(仙台)
昭和10年参謀本部作戦課長(東京)
昭和11年226事件をうけて、戒厳参謀兼務、その後、参謀本部戦争指導課長
昭和12年、陸軍少将、参謀本部作戦部長。関東軍参謀副長(新京)。この時の参謀長(上司)が東條英機で、ここで両者の確執は決定的なものになる
昭和13年、副長を罷免され、予備役編入願(辞職願)を提出し帰国。受理されず、舞鶴要塞司令官に左遷
昭和14年昭和14年、陸軍中将。第16師団長(京都)
昭和16年、予備役編入
(年表終わり)

 石原、予備役編入で、軍人としては完全に息の根を止められてしまった。軍歴としては、ざっと34年。高級軍人としては順当な階段を昇っていたのだと思える。しかし、参謀本部関東軍参謀での活躍をみると、中将どまりというのも解せない。このあたりを解明するために、石原と犬猿の仲だった東條英機の経歴も並べてみた。新聞チラシの裏に比較年表をこさえてみたんだけれど、ほほう、二人は関東軍で参謀長と参謀という立場で8カ月間、仕事を一緒にしている。この時に、東條町内会長は、頭が切れて、大局観があり、上官にもずけずけとモノを言う大器の新参謀の石原莞爾を徹底的に嫌ってしまった。小さい器には絶対に大きい器は納まらないということですな。
 歴史に「if」はないけれど、もし、東條にもう少し器があって、石原を登用していたら、あるいは石原の支援に回っていたら、その後の大災厄は回避できていたかもしれない。回避はできなくともずいぶんと違ったものになったことだけは断言できる。石原と東條がその立場を代えていたら、おそらく歴史は変わっていた。しかし陸軍という官僚組織は、律儀で小心な町内会長としてはできのいい東條を必要としたわけだし、日本そのものが石原の大構想にはついて行けなかった。
 その石原を取り巻く組織のことや、東亜の大構想については明日にでも。