恩賜の軍刀

 昨日の「たかじんのそこまで言って委員会」で、司会の辛坊さんがこんなことを言った。
「僕の同期でも、勉強してこなかったコネ入社の連中のほうが、秀才の多い一律入社よりも優秀なんですよ」
 続いて、コラムニストの勝谷誠彦さんが、辛坊さんの話を補強するエピソードを披露する。
「勝利をおさめた日清戦争日露戦争を見るがいい。戦争を指導した将官たちは、侍の子弟を中心にしたコネで軍人になった連中だった。その後、陸軍兵学校、海軍兵学校……をつくって全国から秀才を集めた。そのなれの果てが東條英機。こいつらが大東亜戦争を指導した。秀才は勉強し過ぎて、モノが見えなくなる。責任を取らなくなる。だから敗けた」
 ワシャの本棚に『帝国陸軍将軍総覧』(秋田書店)がある。ここには建軍から太平洋戦争までの将星4500人余の経歴が網羅されている。これを概観した印象だと、辛坊さん、勝谷さんの言うことに一理あると思うなぁ。
 当時の状況を見てみよう。頭でっかちの秀才軍人がいない日清・日露を勝ち、軍人の株は急上昇する。当然、子供たちのもっともなりたい職業は「軍人」であった。全国から秀才たちが軍人の英才教育機関である幼年学校に集中する。その中からさらに飛び抜けた秀才を陸軍大学校などに集めてエリート教育を施していく。その中でもずば抜けた秀才たち(成績優秀者の上位6名)は「恩賜の軍刀組」と呼ばれ別格扱いを受けた。この「恩賜の軍刀組」に愚将が多い。そしてそうでない将官に名将が多いのである。
 これには理由がある。この部分はノンフィクション作家の保阪正康さんの言を引く。
「陸大の成績は、指導教官の評価によって大きく左右されるんですね。数学や自然科学のように誰がやっても答えがひとつというような勉強ではなく、戦術・戦史の研究で図上演習をやる。東條とその側近だった佐藤賢了は、陸大では教官と生徒の関係だったんですが、彼らがわかりやすい例で、出世しそうな奴が教官になると、それについていく生徒が出てくるんですね。そういう生徒たちを周りは納豆と呼んでばかにしていた。そういう奴らがいい点をとって軍刀組になる」
 6月21日にも書いた瀬島龍三などもこの一派で、かれの著作『日本の証言』(フジテレビ出版)のプロフィールには「1932年に陸軍士官学校、1938年に陸軍大学校を主席で卒業」と誇らしげに書いてある。もちろん陸大主席だから「軍刀組」である。瀬島の認識では「軍刀組」は誇りなのだが、時代が過ぎ、歴史を俯瞰してみると「軍刀組」という勲章は「バカの紋章」に過ぎないのである。
 もちろん中には石原莞爾のごとき天性の切れ味をもつ「軍刀組」もいるが、これは例外であって、押しなべて全体を見渡した時、軍刀組の存在は国家のためにはならなかったと言っていい。秀才ゆえに、己を無謬主義の中に落とし込んで、一切の責任を他者に押しつけることで貧しい誇りを維持しようとしてきた。その時はそれでいいのだろうが、後世の歴史の中で必ずや断罪されることになる。
 
 さて、平成の軍刀組の皆さんはどういった人生を歩むのでしょうか。今を誤魔化して国民の上に胡坐をかいてのうのうと余生を送るのか、卑怯者にならないために必死に汗をかくのか、ここが先途だと思うが……。