いつか来た道

 この道はいつか来た道
 ああ そうだよ
 アカシヤの花が咲いてる

 関東軍山東に出兵した昭和2年に作曲された童謡「この道」である。

 戸部良一編『失敗の本質』(中公文庫)の冒頭に「ノモンハン事件」の事例研究があり、その中で著者はこう言っている。
ノモンハン事件以前に日本陸軍が師団以上の兵力でソ連軍と交戦したのは、大正八年(一九一九)〜同一一年にかけてのシベリア出兵、昭和一三年の張鼓峰事件があるが、いずれも日ソ両軍の本格的な戦闘とはいいがたく、それゆえノモンハン事件からは多くの教訓と示唆が得られたはずであり、物量を誇る米英との大東亜戦争に対する貴重な教訓になるはずであった。》
 しかし、そうならなかった。ノモンハンという現場での出来事を、関東軍参謀本部大本営はしっかり把握しておかなかった。ノモンハンはけして小さな戦いではなかったが、その後に続く大戦争と比べれば局地戦でしかない。前座の局地戦を、きっちりと検証をしなかったことが、国家的な悲劇を招く大きな要因となっていく。
 軍のエリート官僚(キャリア官僚と言い換えてもいい)は秀才であるがゆえに無謬主義に陥り、己の失敗を隠す、誤魔化す、転嫁するものだということを如実に現した史実である。

 さて、現在の日本人は73年前に犯した失敗から何も学んでいないのではないか。ノモンハンの検証を故意に怠った軍官僚は、そのわずか2年後に米英と全面戦争に突入していった。
3.11から1年3か月、福島第一原発事故は、しっかりと検証したのか、し尽くしたのか。ここをじっくりと検証せず、危うい部分を残したまま、原子炉を再稼働するならば、現在の日本人は73年前のノモンハン事件を嗤えない。福島第一原発事故を吟味せずに、原子力発電を再開するのは、ノモンハンの検証をせずして、太平洋戦争に突入していく大日本帝国によく似ている。
「国民生活を守るため」と言い訳しながら、大飯原発を再開する。なにしろ動かしてしまえば、日本人は忘れっぽい。じきに原発アレルギーを脱する。執念深く騒ぐのはサヨク市民だけだろう。そんなのは軽くあしらっておけばいい。とにかくなにがなんでも1基動かす。1基動けば、それを既成事実として全基が動かすことができる。福井県原発銀座の賑わいが戻るのもそう遠い話ではない。賑わいが戻ったところで、若狭湾に直下型の巨大地震が発生する。野田総理が「安全だ!」と言い切って再稼働した原子炉が次々に爆発し、日本列島の中心部はことごとく汚染されてしまいましたとさ。
 こうならない保証はどこにもなく、なった場合の責任の所在すら明らかになっていない。再稼働を判断した政治家、官僚、企業は、土下座くらいはするだろうが、そんなものは得られる利益からすれば屁でもないのだ。
 実際にわずか1年前の初動対応のミスですら、なすりつけ合っている体たらくではないか。

 関東圏は、昨年の夏を節電で乗り切っている。中部電力管内は、大企業が土日操業にシフトすることで、浜岡原発で不足する分を凌いだ。大阪だってやろうと思えばやれるはずだ。なんの対応策も検討ぜず、なにも試みず、闇雲に大飯原発再稼働に突き進む暴挙は、ノモンハンの時の愚かなる軍官僚、服部卓四郎、辻政信と同じ轍を進んでいる。
 この愚将二人について少し触れる。服部と辻は、当時の日本陸軍にあって、トップエリートだった。日本陸軍でトップということは、日本で最優秀のグループに属していたわけだ。戦前、頭がよく健康な少年たちはこぞって陸軍士官学校を目指した。その中でも二人は「優等卒」の気鋭と言っていい。ところがこいつら、卑怯で無責任なことでも人後に落ちなかった。彼らばかりではない。東條グループと称される陸軍エリート集団は、こぞって卑怯者だった。
 話はどんどん外れていくが、東條人脈の主力メンバーに陸軍の特攻隊を主導した冨永恭次中将がいる。この男は、若き航空兵を特攻隊として出撃させるとき、「君らだけを行かせはしない。最後の一機でオレも特攻する」と言って励ました。もちろん、最後の最後まで冨永は出撃しなかった。それどころか、戦況が不利になるとさっさと、部下を置き去りにして敵前逃亡をするほどの卑怯者である。

 時は流れ時代は移ろう。しかし、秀才たちの体質が大きく変化したとはとうてい思えない。昭和の初めに日本を亡ぼしてしまった軍エリートの怨霊が、平成の世に復活し、野田総理を操って「再稼働」を進めているような気がしてならない。
 日本は、またあの悲劇を繰り返すことになるのだろうか。

 この道はいつか来た道
 ああ そうだよ
 あやかしの罠が咲いてる