求名(ぐみょう)

 得のいくことばかりを考える。いろいろな本を読んで勉強するが、肝心のことはさっぱり分からない。偉そうに「通」ぶって知識をひけらかすことばかり考えている。自分の名を売ることばかり求めている。
 ワシャのことではないですぞ!
法華経』の冒頭に出てくる「求名」と呼ばれた仏弟子のことである。釈迦の高弟にもせっかちで生々しいのがいたんですな。
 お経では「貪著利養。雖復読誦衆経。而不通利。多所亡失。故号求名」という部分だ。
 ある日、釈迦のまわりに仏弟子が集まり、法話に聴き入っている。やがて釈迦は口を閉ざし瞑想に入った。その内に白毫から光が発せられ、東方一万八千世界を照らし出した。
 この状況を見守っている中に弥勒菩薩がいた。釈迦が何も語らないので、心配になってしまう。そこで近くにいた物識りの文殊菩薩に「この現象はどうしたことでしょうか。これから何がおきるのでしょうか」と問う。文殊菩薩は「あわてなさんな。釈尊は今に教えを説いてくださる。合掌して一心に待てばいい」と諭す。その文殊の応答の前段に「求名」という愚か者が登場したということなのである。
 このくだりに、ワシャ的には衝撃の事実が出てくる。極々端折ってしまうのだが、「求名」は、実は弥勒菩薩の前身だったのだ。
「えええ!」てなもんですわ。中宮寺弥勒菩薩をご覧になったことがありますか。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9
 ここには、広隆寺弥勒菩薩も見られるが、どちらにしても、この神々しさはいかばかりであろうか。この仏様が「自分の得ばかり考え、驀読するだけで本質を見極められない。知ったかぶりをして、売名ばかり求めていた」とは、にわかには信じられない。しかし『法華経』に書いてあるんだからそうなのだろう。
法華経』に関する本は何冊か持っている。松原泰道の『法華経人生論』(佼成出版社)、『法華経入門』(祥伝社)、西村公朝『ほけきょう』(新潮文庫)、石原慎太郎法華経を生きる』(幻冬舎)などである。石原さんが推しているところからも解るのだが、そしてワシャが敬している北一輝とか石原莞爾も強い影響を受けている。ワシャの中では「危険な文献」という位置づけだった。だから『法華経』そのものには手を出さずにいたのだ。しかし、「せっかちで生々しかった彌勒菩薩の存在」が引き金になった。欲にまみれた愚かな衆生に響いてしまった。ついに『法華経』に手を出すことになるとは……おそろしやおそろしや。