無常なる宇宙

 昨日。
 午後6時を少し回っていただろう。ワシャは市街地の北に広がる圃場の中を歩いていた。一面の麦が色づき始めている。麦秋も近い。

 立ち止まって南西の空を見上げる。まだ青みの残る空の高いところに融けそうな半月が掛かっている。西の地平に目を移せば、紅く熟した陽が遠い家並のむこうに落ちつつあった。
 夕日は、直視することができるんだな。輪郭がはっきり見える。太陽が円い星であることが久々に理解できた。あれが地球などいくつもの惑星を従える太陽系の王なのだ。

 先日、友だちと名古屋へ出かけた。名古屋市科学館プラネタリウムの最終回チケットが運よく取れたので35mの世界最大のドームを体験してまいりましたぞ。遅いって?(笑)
 50分番組は、それなりにおもしろかった。5月は『宇宙のアルバム』というもので、様々な天文台で映された惑星、星雲、星団、銀河などが天空に広がった。でも、それらの映像は、ワシャの視力が落ちたのか、あるいは写真の解像度が悪いのか、少しぼやけていたのが惜しかった。
 構成も、小学校の高学年程度に合わせているのだろう。少し天文のことをかじっている人にはもの足りない内容だった。でもね、解説を担当した男性の声はいい。野田秀樹さんの声に似ている。必ずしも美声ではないけれど、やわらかく静かで、それでいてよく通る声だ。耳を澄ませていると心が静謐になっていく、そんなすてきなナレーションだった。
 終盤に入って、観客の視点は大地から離れ、太陽系から遠ざかり、銀河系の外に出て、宇宙空間光速を超えて飛んでいく。宇宙の縁辺まで行って、また地球に戻ってくるのである。その経過が、どれほど地球が儚いものなのか、人の命のスケールがどんなに小さいのかということを思い知らせてくれる。

 宇宙には銀河系のような星雲が無数に存在する。観測可能な範囲の中だけでさえ1700億もの銀河がある。我々の銀河系ですら直径が10万光年もあって、そこに太陽のような恒星が1000億個も集まっている。その一つひとつの恒星に複数の惑星が捉えられているのである。太陽系ですら8つの惑星と5つの準惑星、その他にも大気を有する衛星などが存在している。その中の一つが地球ということ。
 大宇宙のスケールから、銀河系のサイズに戻るのにも、時間がかかった。銀河系の中で太陽系を見つけて、そのサイズになるにも時間を要する。太陽が視認できたとしても、その惑星である地球が見えるまでには、また長い時間を待たなければならない。
 ようやくはかなく光る青い星が確認でき、その星の衛星(月)を通過してからも、なかなか青い星は大きくならなかった。月と地球の間でさえ38万キロという途方もない距離なのである。この映像は、地球の小ささを実感させるのにはなかなか効果的だと思う。
 ドームいっぱいに青い星が映し出された時、思わず目頭が熱くなってしまった。なんと地球は美しい星であることか。そして広大な宇宙の中で、そのはかなさはいかばかりであろう。天空に浮かぶ地球、それは月に向かうアポロ17号から振り返って撮影した「ザ・ブルー・マーブル」である。
http://d.hatena.ne.jp/salahito/20080307/p1
 そこにはアフリカ大陸、アラビア半島南極大陸などが写っている。それにしてもなんと絶美な星であることか……。
 残念ながら、その写真には人類の痕跡は写りこんでいなかった。夜の地球ならまた違うのだろうが、太陽の光にさらけ出された地球は静寂な青の海、水蒸気氷の純白、サハラからネフドにかけての茶褐色しか見えない。人類の活動など壮大な自然の前にはさしたることもないのだろう。この映像サイズの世界で考えても、人間と虫の命の軽重は大した差ではない。さらに銀河スケールに拡大すれば、どちらもチリのようなものでしかない。大きさばかりではなく、宇宙的な時間で考えれば、カゲロウの一生も人の一生も瞬く間の話だろう。

 プラネタリウムのナレーターは「50億年後、太陽は爆発します。その時の様子を見られないのが残念ですね」と言った。
 夢のある言葉だなぁ。50億年である。とてつもなく長い時間と言っていい。そもそも人類は存続していないだろう。それに太陽寿命の末期になれば、もっと早い段階で膨張するので、その瞬間に地球の軌道は太陽に呑みこまれる。地球そのものが消滅してしまう。まあ1億年もあれば、ワシャらはとっくに骨になって、その骨すら分解されて、地球の大きな循環の中にいるわけだし、地球自体が太陽に焼かれて原子レベルにまで分解してしまえば、さらに大きな宇宙の循環の中に組み込まれていくだけなのだ。50億年経とうと、人間を構成した物質は形を変えてどこかに存在している。

 50億年よりやや長い56億7000万年という数字がある。これは釈迦の次にブッダとなる弥勒菩薩が修行を終える時間の長さである。悠久の時の彼方に、弥勒菩薩衆生のもとに降臨して救済をしてくれるのだという。ありがたやありがたや。

 なんだか宗教がかってきてしまった。ワシャが思い悩んでも考えこんでも、阿呆の考え休むに似たりで、ロクなことにはならない。コーヒーでも淹れて一服しながら、昨日買ってきた玄侑宗久『無常という力』(新潮社)を読むことにしようっと。