書棚から1冊の雑誌を出してきた。月刊『大相撲』(読売新聞社)の昭和51年3月号である。表紙が、第55代横綱北の湖。横綱になって10場所目、まだ2年が経過していない23歳になったばかりの初々しい横綱の写真だった。記事には「北の湖を大横綱に」というものがあり、師匠の三保ヶ関さんが、若き北の湖に厳しい指摘をしている。
「差してもまわしを取るな」「精神と技術の合致をしろ」「孤独に耐えろ」
三保ヶ関さんの叱咤する声が聞こえるようだ。でもね、褒めてもいるんですよ。
「とにかく地位が上がると、生意気になり、師匠の言葉に反発するケースが多くなるものだが、北の湖にはそれがまったくない。むしろ素直になんでもよく聞いてくれるので助かる」
土俵では強面の北の湖だったが、実際にはとても優しい関取だった。師匠の言うことを忠実に実行し自らを律してきた。その結果として、北の湖は大横綱になり、その後、死ぬまで理事長をつとめ上げて大往生をした。今頃、彼岸で先代の三保ヶ関親方に会って、いろいろな思い出話をしていることだろう。
初代の若乃花に地方場所で頭をなでられて相撲ファンになり、柏鵬時代を好角家の祖父とともに過ごし、本当のことを言うと、大鵬、柏戸よりも若秩父が好きだったなぁ。その後のマイブームは輪湖(輪島・北の湖)の時代だった。北の湖は「憎らしいほど強い」と言われていたが、輪島も強かった。両雄が相並ぶと日本じゅうが盛り上がったものである。北の湖、輪島だけではなかった。三重ノ海、若乃花も元気がよかった。なにしろ力士のマナーが良かったので、土俵が清々しかったなぁ。大学生のくせして、ガチャガチャで関取消しゴムを集めていたっけ。100個くらいは今でも倉庫を探せば出てくるんじゃないかな。
北の湖さんが亡くなられて、一つの時代が終わった。そんな気がしている。