元禄のナンバー2

 昨日の日記に、芭蕉の臨終の話を書いた。芭蕉の枕元に高弟たちが居並んでいるわけなのだが、その中に宝井其角という筆頭弟子がいる。10月18日の日記
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20151018/
にも書いたけれど、歌舞伎「松浦の太鼓」の脇役としても舞台に登場してくる。赤穂浪士の大高源吾の俳諧仲間としてである。なんだかあちこちで目にするようになって、だんだん立体的に見えてきたなぁ。

 其角と同時代に柳沢吉保という人がいる。「赤穂事件」の重要な登場人物で、ある意味で敵役ということになるのだが、幕府のナンバー2の切れ者(?)だった。?としたのはテレビや映画では、例えば知的なイメージのある石坂浩二などが演じていて、大方の印象としてはそうだろうと思う。でもね、ワシャはそう思っていないということ。
 五代将軍綱吉の治世を守ったのは、確かにこの人である。元禄という時代を一身に担っていたのはこの行政官であろう。しかし、その事歴を見ると、綱吉という絶対者に評価はされていたものの、実際の裁断についてはクエスチョンマークを点けざるをえない。
 その有名なところでは、「赤穂事件」の発端である「松の廊下刃傷事件」の誤判断である。あれは、どう考えても拙速すぎる判断だった。トップの綱吉がどう言おうとも、それを押し止めて幕法のもとにきっちりと裁判するのが幕閣の務めであろう。バッカくじゃないの。
 そして天下の悪法と言われた「生類憐みの令」である。この一事をもって綱吉は「馬鹿殿」になった。どこかでブレーンが押し止めなければいけなかった。しかし、ブレーンの筆頭である吉保は、推し進めるほうに回って、綱吉に馬鹿踊りを踊らせてしまう。綱吉が生きているときは独裁者の威光でなんとかなった。だがその死後、幕府の対応をみれば、ほぼ綱吉の施策は全否定である。そして後世に「犬公方」という間抜けなレッテルまで貼られてしまう。これはひとえにナンバー2である吉保の責任に帰する。吉保が、腹かっさばく決意で綱吉に進言していれば、あるいは綱吉の後世の評価は高かったかもしれない。

 吉保の側室が日記を残している。『松蔭日記』である。その中には実に真面目で勤勉で優しい吉保のことが記されている。これも一面で正しい吉保像なのであろう。しかし、『徳川実紀』などの文献に残されている事歴も吉保のやってきたことなのである。人間はいろいろな側面を持っている。綱吉という強い光源からの影の中にしか、己の立ち位置を見いだせなかった政治家の悲劇なのかもしれない。
 今日は柳沢吉保の三百回忌である。