元禄時代

 今日は、徳川幕府の四代将軍徳川家綱の命日なので、ちょっと江戸時代のことを書く。

 家綱は短命だった。享年40だったから、当時としても少し早い。しかし聡明な将軍だった。歴代でももっともモノがいいかもしれない。殺伐とした戦国時代の遺風を廃し、儒学を学問の中心に据え、幕藩体制をかためる文治主義を打ち出した。
 五代は弟が継いだ。綱吉である。将軍になったばかりの頃は、家綱の遺志を継ぎ、儒教の礼楽主義の実現につとめ「天和の治」とも言われていた。これだけに留まっていればよかったのだが、頭が勝ちすぎた。今でもいるでしょ。頭はいいのだけれど視野狭窄な人、独りよがりな出来すぎ君。母親の桂昌院の言いなりになったかどうかは知らないけれど、あの天下の悪法「生類憐みの令」を出しちゃった。過ぎたるは及ばざるが如し。このため「犬公方」と揶揄されることになる。この偏執狂が君臨した時期を「元禄時代」と呼ぶ。

 この「元禄時代」には二つのとらえ方がある。まず元号としての「元禄」。これは1688年から1704年までの17年間をさす。もちろんその期間は綱吉が将軍であった。もうひとつは綱吉の治世全体をとらえて「元禄時代」とする考え方である。1680年から1708年の29年、人でいえば一世代くらいの時となる。一般的に「元禄時代」というと後者をさしていることが多い。
 さて、1615年の大坂の陣を最後に戦国乱世が幕となる。その後、家康、秀忠、家光の三代で、幕府の威勢が日本全体にあまねく広がって、戦闘員であった武士は事務官僚化し、土着の農地からはがされて都市へ集められる。兵農分離である。戦闘員であるとともに生産者でもあった武士が、都市生活者となっていくのが江戸前期だった。この過程で、天草の乱や、限定された地域での一揆などはあったが、全体としては平和な70年が続いたのである。戦後70年をイメージしてもらえれば、戦国が終わってから元禄に至るまでの、時間がなんとなく摑んでいただけよう。
 現在も江戸も平和が続くと人心は頽廃が進む。これは時代・場所を問わずそうなってしまう。とくに戦闘員であるはずの武士の緩みは生半可なものではない。平和で都市生活とくれば、堕落するしかないでしょ、てなことですな。
 あわせてこのころから武士たちの財政が悪化している。商人たちの台頭により市場経済が拡大しはじめ、もともと俸禄の決められている武士たちの出費は増えるばかりとなる。そして幕府そのものも、江戸城の再建や、綱吉、桂昌院の濫費が祟って急激な財政悪化を招いた。
 町人は経済を回すことで、富を蓄えていく。なにも生産手段をもたないある意味で高等遊民化していた武士は金を巻き上げられるだけだった。ここで理想の士農工商が崩れ、商業者が大手をふって吉原で豪遊するなどということも、現実として起きて来るのだ。奈良屋茂左衛門と紀伊国屋文左衛門の吉原豪遊の話などはつとに有名である。
 武士の価値が下がり、その反動として市場経済の流れにのった農工商業者の地位が相対的に上昇した時代だろう。市場が形成され、そこに金が流れ込み、蓄えられるようになると文化が育つ。教科書的に言えば「幕藩体制をつくりあげていこうとする武士の精神と、現実の生活を肯定していこうとする町人の精神とが強く反映されたものが元禄文化」であった。
 例えばこの時期に上方文学が興隆する。井原西鶴近松門左衛門はその代表格でであった。この両雄の登場で、町人はおろか武士階級までが、笑い喜び涙をしぼった。
 武士が頂点に立って、政治経済芸術を牛耳っていた時代が、徐々に変わろうとしている時代、それによって支配層の価値感、被支配層の価値感が変化をし始める時代が「元禄時代」と言えるのかもしれない。

 わっ!出勤の時間だ。ちょっとした予習のつもりだったが長くなってしまった。