読書会の話

 一昨日の読書会では「死」の話をした。そこでメンバーに「死ぬこと」が怖いかどうかを尋ねた。ワシャは「死ぬこと」については怖い。だから大方の人はそんなふうに考えているのだろうと、漠然と思っていた。だから問うた。
 ところがどうじゃ、8人のメンバー中6人が「死ぬこと」については、さほどの恐怖は感じないと言うではあ〜りませんか。そのあたりを詳しく聴いてみると、あるメンバーは「死自体は未体験なので、一定の不安はあるが、死んでしまったのちについてはあまり怖くない」と言う。
 あるいは「死までのプロセスを苦しみたくないが、死んでしまえば、なにもなくなるので怖くない」と言ったメンバーもいた。
 また、手塚治虫の『火の鳥』の話を出して、「永遠の生のほうが恐怖なのではないか」という意見もあった。
 生は無の中から生まれてくる。現在、地球上で生を謳歌している誰一人として150年前、明治維新の頃には「無」だった。一片の肉片もなかったのだから、もちろん意識が存在するはずがない。そして150年もすれば、今地上にいる70億の人間は、みんなきれいに消えている。残っているのは骨ばかりなりけり。
 誰が言っていたか忘れてしまったが「永遠の闇から瞬間に光の中に取り出され一瞬だけの生を与えられる。一瞬の生の後は、永遠の闇になる。その理不尽さが怖ろしい」、ワシャの場合はこのことに尽きる。そもそも輪廻転生も西方浄土も信用していないのだ。そういえば6人のメンバーには浄土宗、浄土真宗の方が多かった。そこを指摘すると、そうじゃないと反論されたけどね。
 話題に上がったのが、正岡子規が死の直前に書き留めた言葉だった。
「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きる事であった」
 これは『病牀六尺』の中に出てくるもので、その引用が『仏教教理問答』の中にもあった。子規の言う「悟り」であるが、ワシャら凡人には、よく解らない。
 そのことについては、第5章にあった「今私が『私』と言っているような私が、私でなくなった時、実は天地が一枚に解け合い、そして万物が光輝いているような、そんな領域が開けてくる。そんな領域が浄土の世界じゃないのか」という浄土真宗の梯實圓(かけはしじつえん)師の発言が引かれている。ここから考えると「悟り」は、救いの境地、浄土というようなことではないのかと思ってしまう。浄土というのは、阿弥陀如来西方浄土薬師如来の瑠璃光浄土で、どちらにしても死んでから往くところじゃないの。ワシャは単純にそんな風に思ってしまうが、メンバーからは「違うなぁ」という反応が出ていた。
 こんな話が、3時間や4時間で収まりまっかいな。その後も、延々と宴々で続いたのだった。一番長かった人で4軒を梯子したという(驚)。もちろん御前様のはずで、そのあたりを問いただしたが、意識が浄土に行っていて記憶がないという(笑)。それも善きかな。浄きかな。