ある葬儀

 葬儀があった。そこそこ大きなもので、200ほどの席はほぼ埋まっている。浄土真宗の導師が読経をあげる。どうもワシャは浄土真宗の僧がピンとこない。やはり僧侶は剃髪していることで、なにがしかの有難味が出る。昨日の人は、やや髪の毛の多い人で、その髪がセットされていなかった。なんとなく寝起きで来たような感じを受けた。

 ただ浄土真宗系は、葬儀が短いことで知られている。だからすんなり終わるのかと思ったが、通常なら列席者の焼香が終わると、読経も終了していた。が、この和尚様は、焼香が終わってからもかなりねばって読経を続けた。

 それでも葬儀は粛々と続き、導師が退席し、喪主の挨拶も手短にまとめられ、その中にも感謝の気持ちがこもっていていい挨拶だった。

 さて、これで葬儀も終わりか……と思ったら、なんだか、突然、女性のナレーションが始まった。「故人様の在りし日をしのびまして~」と、本人は上手いナレーション、朗読だとでも思っているのかもしれないが、本人が上手いと信じ込んでやる朗読ほど聞けないものはなく、とくに故人と何のゆかりもない列席者に滔々と故人の話をされても、興ざめになるばかりである。せっかくしんみりとしたいい葬儀を台無しにする恐れすらある。ナレーターはついに愛を語り始めた。おいおい、葬式に来て「愛とはなんぞや」と説かれても、どうすりゃいいんだ。逃げようにも奥の方に座っているから逃げることもかなわない。

 最近、葬儀をセレモニー化する葬儀社が増えている。葬儀は葬儀で、しんみりと故人を送ればそれでいいと思う。過度な演出や、下手な語りは聞きたくない。森本レオ市原悦子ならいいが、でなければ静かに葬送の音楽を流していればいい。

 なにしろ年々葬儀社の手がけるものが派手になっている。それを嫌ってか、家族葬のようなものも増えつつあるが、ワシャは基本的にそちらの方向でいいと思う。

 出棺の際にも、棺の蓋を開けて、故人を衆人にさらすセレモニーも必ず付き物になってきたが、ワシャは死に顔を誰にも見せたくない。だから子供たちには、そう言い聞かせてある。ワシャの死に顔は門外不出なのであ~る。

 このところで一番たたずまいの良かった葬儀は、前の勤め先の後輩の御母堂の葬儀だった。家族葬で営まれたわけだが、かといって家族でないワシャらが紛れ込んでも、暖かく迎え入れてくれた。僧侶の度胸も適当な長さで、喪主の挨拶も心のこもったものだった。もちろんへんな演出や、ナレーションは一切入らない。

 おそらく金もかかっていないが、金をかけたってごっそりと葬儀屋に持っていかれるだけのことで、それで葬儀が無様なものに仕立てられるとしたら、逆ですわな。

 てなことをしみじみと感じた今日この頃であった。