ある葬儀

 昨日、盆明け早々にご近所の方の葬儀があった。通常は隣組で淋し見舞や香典を出すだけなのだが、今回はいろいろな縁もあって、葬式にも参列させてもらった。亡くなられた方がご年配だったので、落ち着いた式になった。ワシャも末席でご冥福をお祈りしたのである。
 それはそれとして。ニュートラルな人間として感じたことを書く。もちろんこれは故人やご親族に言うものではなく、葬儀のあり方、葬儀社のスタンスに物申したい。
 最近の葬儀に共通するのだが――あるいは三河だけなのかもしれないが――式の開始前に、どうだろう、10分か15分前になると、静かなBGMとともに妙なナレーションが入る。
「在りし日の〇〇様、笑顔がとても素敵で、周囲の誰からも好かれておいででした。人が困っていると、それを見て放っておかれない性格でございました。またいろいろな活動を積極的になさっており、サークルのリーダーとしてグループのメンバーから頼りにされておられました……」
 今回の例ではないですよ。一般的にこんなような内容のアナウンスを葬儀社の女性社員がやっているということ。
 葬儀というのは、セレモニーである。いろいろな演出があってもそれは仕方がない。葬儀前に参列者が手持無沙汰だろうから「故人の経歴や思い出を披露しよう」とどこかの誰かが智恵を出したのだろう。結婚式では、新郎新婦の陳腐な生い立ちを見せられることが30年くらい前からスタンダードになっている。その押しつけがましい演出がついに葬式でも始まったか。いい人にはいいのかもしれない。ただ、ワシャの趣味ではないね。
 故人に対する想い出とか印象というのは人それぞれで、Aさんにとってはこんな感じだったし、Bさんにとってはこんな心証だったということだと思う。つまり、故人のいいとこどりをした万人受けのアナウンスは、誰の心にも響かないということなのだ。「あ、そう」で通り過ぎていく音でしかないような気がする。葬儀の始まる前は、遺影を前にして、静かに故人と向き合えばいい。それぞれが故人との記憶を呼び戻して、そっと手を合わせれば、故人は喜んでくれると思うけれど。
 さて、そんなことを考えていたら定刻になった。葬儀がいよいよ始まる。葬儀会場の外から「南無妙法蓮華経〜南無妙法蓮華経〜」と誦す声が聞こえる。ゲッ、日蓮宗か!
 ワシャは宗教を差別することはない。曹洞宗であろうと日蓮宗であろうと、カトリックプロテスタントイスラムユダヤ、ヒンドゥなど、それぞれの信仰を尊重したい。ただ、合法非合法に関わらず、極めて狭い教義を己たちの都合だけで振り回すカルト宗教は嫌悪する。
 言い訳が長くなっているが、ワシャは日蓮上人も尊敬しているし、身延山久遠寺には参拝もした。柴又題経寺の御前様にはいろいろと教えていただいた(笑)。そういう状況ではあるが、日蓮宗の葬式はちょっと馴染めない。
 まず、読経が長いのである。浄土真宗をみなさいよ、引導も渡さないから、手っ取り早くっていい。ちょこちょこっとありがたいところだけ誦して終りだ(『男はつらいよ』第32作)。もう一つは、木柾(もくしょう)がいけない。木魚ならいいんですよ。ポクポクポクポクチーン、これならばいい。だが、木柾は音が高いんですね。キンキンキンキンキンキンキンキン、これが耳に刺さる。これだけは苦手だ。
 とってつけたようだが、いいところもある。日蓮宗の読経はとても解りやすい。日本語として聴いていられる。基本的にいい葬儀だったですよ。