9月13日の顔

 顔の話を昨日から引きずっている。
 明治の軍人に乃木希典という人物がいる。嘉永2年(1849)に江戸で産声をあげた。ペリーが浦賀に来る4年前のことである。幕末期は慶応元年(1865)に長府藩報国隊、翌年には奇兵隊に参加している。15歳、16歳くらいのことで、今で言えば、高校1年生といったところか。
 維新となり明治4年(1871)に陸軍少佐に任官している。長州閥ということで出世が早い。西南戦争で軍旗を失うといった大失態をしてもなお、明治18年、36歳で陸軍少将に昇進している。閥の引きというのはいつの時代も変わりませんな(笑)。
 明治27年日清戦争では、歩兵第1旅団長として旅順を攻略。日露戦争での愚将としての大活躍は『坂の上の雲』に詳しい。それでも、ワシャの中で、乃木希典の評価は低くない。それは出処進退の潔さが、乃木の欠点を補って余りあるからである。
 乃木の若いころの写真を見ると、どちらかといえばさえない顔立と言っていいだろう。黒々とした髭はたくわえているが、眉も目も尻が垂れており、眼光も鋭くない。どちらかというと間延びした顔だ。これなら軍旗をなくしてもしかたないと思わせる。
 ところが日露戦争から、それ以降に撮られた写真、50代半ば以降の顔を見ると、あきらかに表情が変化していることに気がつく。頭髪も髭も白くなっている。目も静かだが、強い光を感じる。明らかにこの人物が経験、思想、品格によって顔を形成し、晩年の顔を完成させたのである。
 大正元年9月13日、明治大帝の葬儀が行われた。この日、乃木は静子夫人とともに東京赤坂の自邸で殉死している。二人の息子は日露戦争で失っていた。もう跡取りはいない。このため乃木希典は「伯爵乃木家は自分の代で断絶するようにしてほしい」と遺書に残している。この時代、名家になると養子を嗣いででも家名を残すことが多々あった。それを乃木は嫌ったのであろう。
 この潔さはいかばかりであろうか。

【おまけ】
 共産党社民党がリードする国会前のデモ
http://www.sankei.com/politics/news/150912/plt1509120027-n1.html
 若者よ。そんなイデオロギーに染められている暇があるならば、被災地へ行け。国会議事堂前からならすぐ行ける。そこで被災者の支援をしたほうがどれほど建設的であろうか。共産、社民の嫌う自衛隊は今必死に救助活動をしているぞ。