寺内正毅

 先日の読書会で、話題が「組織論」、「リーダー論」の話になった。そこでメンバーのひとりが言ったことが興味深い。

「規律を守ることをなによりも優先する上司・幹部が幅を利かせる組織はぜい弱だ」

 そんなようなことを自らが所属した組織を例に挙げて語った。

 ワシャはそこでハタと膝を打った。その日、読書会に参加する前に、書店で購入した「週刊ポスト」にメンバーの発言と同じことが書かれていたのである。

 井沢元彦さんの連載「逆説の日本史」だ。タイトルは《陸軍参謀本部を「バカトップ」の集まりに変えた主犯・寺内正毅》である。

 寺内正毅(てらうちまさたけ)、もちろん歴史好きのワシャは、この愚物をよく知っている。まぁクソ真面目ということでは評価が高い人物と言っていい。それは東條英機にも通じるところではあるが、東條と比較すると頭の出来は、ちと鈍いと思う。とはいえ、総理大臣まで登り詰めた立志伝中の人である。灰神楽が立つような幕末の混乱の中、長州から出てきた。

 長州というと、一流の人物は、維新の動乱の中で消耗していった。高杉晋作久坂玄瑞吉田稔麿大村益次郎などは、明治に生きてあれば、どれほど日本のために仕事ができたであろうか。それこそその後の日本の有り方を変えたくらいの力量を持っていた。

 二流どころが伊藤俊輔井上聞多、山県狂介で、この程度の人物でも歳月を経ることでそれなりの仕事をすることになる。伊藤しかり、井上しかり。山県など庭師としては、歴史の中でもトップクラスと言っていい(笑)。

 そして三流である。寺内正毅は間違いなくこのグループに入ってくる。司馬遼太郎もこの人物を嫌悪していた。そのあたりは井沢さんが文中で「司馬遼太郎乃木希典と並んでもっとも嫌った、いや正確に言おう、憎悪の対象だった陸軍軍人」と言っている。

 司馬さんの好悪というのは判りやすい。そして井沢さんも寺内を嫌っていることは明白だ。

 なにしろ真面目だけしか取り柄がない。「いやいやワルシャワさん、真面目ということは大切なことだよ」と言われる方がおられるかもしれないが、もちろん小役人くらいなら「真面目だけ」で結構だが、それが国家の中枢部に入り込んでいくとなると、これは「百害あって一利なし」ということになる。

 まさにその典型が、寺内正毅であり、同じ長州藩出身の乃木希典だった。乃木に関しては井沢さんは異論をお持ちのようだが、それはさておく。取りあえず寺内である。

 寺内、第二次長州征伐の際に、13歳で動員された。その後、五稜郭攻めまで従軍し、維新後に、大村益次郎の推薦で大阪兵学寮に入り、そこの校長だった山田顕義の推挙で仏式歩兵術を収める。大村も田中も長州閥の人である。その閥に拾われて、真面目な若者は頭角を現していく。とにかくあらかた優秀で度量のある若者は、長州征伐やその後の戊辰戦争で失われているので、三流でも引っ張らなければ長州の芽がなかったんでしょうね。

 その後、西南戦争田原坂の戦闘で負傷し、それでも退役せずに現役に留まった。ここで退役してくれていれば、大東亜戦争があそこまで悲劇にならなかっただろう。これは返す返す残念である。

 名誉の負傷のために軍務畑から離れた寺内、事務方に移行して権力にしがみついていく。ここでクソ真面目な性癖が本領を発揮する。文書の誤字脱字をチェックすることに血道を上げて働く。チェックマンとしてはとんでもない実力を発揮する。反面、クソ真面目は、想像力が大きく欠落していることが多い。寺内もその例外ではなく、その後の陸軍人事を律儀に、門閥主義、縁故主義で固め、なおかつ陸大卒の知識偏重で常識のない連中を登用してしまった。その結果が、あの敗戦と言っていい。陸大といえば、当時の若者がこぞっていきたい登竜門であり、この時代、東京帝国大学よりも上であった。つまりどこの村落でも、神童が出れば陸大を目指したくらいの位置づけであった。

 ところがクソ真面目な寺内が育むと、常識のない頭でっかちの融通の利かない「秀才中の秀才」が登用をされていくのである。そこに服部卓四郎、辻政信牟田口廉也瀬島龍三など、愚将を生む下地を耕したのが、寺内正毅だった。

 この国難にあり、融通の利かない「秀才中の秀才」が舵をとってはいませんか。それはとても危ういことだと歴史は語っている。司馬も井沢も警告をしている。

 

 頼むから、こういった緊急な時に「秀才バカ中のバカ」は顔を出さないでくれ。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200408-00000129-dal-ent