井上聞多

 昨日、豊川の霊菰塚のことを書いたので、ついつい狐のことを思い出した。
 幕末の美濃に所某という医者がいた。時期が時期だけに、かれも尊王攘夷思想にかぶれ、草莽の中から世間に飛躍しようと考えた。しかし、そう簡単には志士にはなれなかった。
 京にいるときに安政の大獄に見舞われ、大物が何人も捕縛された。所もそのことを恐れた。とはいえ本人が思うほど大物ではなかった。いやいや小物ですらなく、そもそも無名の所の存在など幕吏が知る由もない。眼中にすらなかったのである。
 しかし、滑稽なことに所は捕縛をのがれるべく京を脱出する。故郷の美濃に身を隠そうと思ったのである。その帰路、関ケ原に差し掛かった時に、ひとりの女と出会う。その後、その女に誘われ豪華な欄間のある寝所で同衾したのである。
 ところがどっこい、翌朝、起きてみれば、傍らに草が生えているではないか。豪華な寝所は消え、所は草っ原の真ん中で眠っていたのである。どうやらこの辺りに棲む狐に化かされたようであった……。
 というような話を思い出した。

 タイトルの井上聞多である。
井上馨長州藩士、のちの財政家、侯爵。
 ――というこの人物が、この時期、晋作のまわりにいて駆けまわっている。
「聞多」
 とよばれていた。》
 司馬慮太郎『世に棲む日日』の第3巻の書き出しである。高杉晋作とともに幕末の風雲の中なら身を立て名をあげて明治にいたる。極論を言えば、日清・日露の大戦を勝ち残ることができたのも彼の財政家としての力量に負うところが大きい。
 井上聞多、動乱の80年を駆け抜け、大正4年の今日、身罷った。

 その井上が若いころに死にかけている。山口郊外の湯田村あたりで反対派に襲われた。散々に斬られ道下の畑に落ちたため、刺客は仕留めたと思って退却をした。家人が駆けつけ近所の百姓の家に担ぎ込んだが、虫の息であった。
 ここに偶然、居合わせたのが冒頭の所某であった。彼の懸命の治療で聞多は一命を取り留め、その後の維新の回天に重要な役割を担い、大正期までの日本の転轍機の一本をにぎることになる。

 さて、所某、彼も志士を目指し、長州藩の遊撃隊に所属していた。しかし、長州の三田尻にいるとき、志なかばで病をえて死んでいる。残念ながら史上で彼が成したことといえば、この井上聞多の命を救ったという一事ばかりである。