火山島へもどる、オレももどる、オレもオレもオレも……

 自己責任という言葉はあまり好きではないが、自分の責任で火山島に戻るっていうのはありだと思う。その代わり「自分との音信が不通になっても公費で探す必要はない」の一筆を入れておけばいい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150702-00000029-asahi-soci
 でも連れて帰ったイノブタやブタなどを町営の牧場にちゃっかり入れてしまったところなどをみると、したたかさも感じてしまうのはワシャだけだろうか。こんなことを許していると帰島・動物連れ戻りのドミノ倒しが始まってしまいますぞ。

 ドミノ倒しと言えば、今月の18日にオープンする岐阜市の図書館複合施設「ぎふメディアコスモス」で、本を使ったドミノ倒しイベントを企画している。そのニュースが流れたのは、1ヶ月以上前だったが、現在でも開催の方向で動いているらしい。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/akimotoshoji/20150528-00046130/
 書籍関係のNPOの代表がこう言っている。
《私も本を通したまちづくりを行っていますが、本を扱うものとして、本には敬意を払っています。物を敬う心、その書物を書いた先人を敬う心。子供の頃には、本はまたいではいけないものと教わりました。本をまたぐことは、その書いた人の頭をまたぐようなものだと。》
 本について、司馬遼太郎さんは独特の考え方を持っていた。本はあくまでも資料でしかなく、本自体に一切の価値を見出さなかった。古典籍でも骨董のような扱いをせず、資料としてバンバン線を引き活用をした。本を本として使ったのである。これは本冥利につきるのではないか。
 その考え方からいけば、本をドミノの道具として使うのは、本来の本の使用とは違う。本来の使われ方をして本が劣化するのは許容できるが、無駄ごとで破損したり、汚されたりするのは明らかにおかしい。そもそも本は土足で歩く床に置くものではない。
 日本人のよさは「ものにも魂がある」という思想が根底に流れているところにある。イノブタやブタ、木や花や虫や、箸や針やいろいろなものに魂が宿っていると考えるところに日本人としての矜持があると信じている。いわんや本においてをや。
 本の中には著者の努力と知見が盛り込まれている。本来は敬すべき内容が記されているものである。それによって後世の人々にどれほどの恩恵を与えることだろう。それはもちろん佐高信さんの著作でも同じことで、反面教師として役に立つ可能性もある。そういったものには魂が宿っているのだと、日本人ならそう考えたい。
 本ドミノを実施する主宰者側は「古本で集めたからいいのだ」と言っているらしいが、そういう問題ではない。本を大切に扱う、ものを大切に扱う、本来の用途として使い切る、それが日本の美しい文化だと考える。そういった意味からいうと、岐阜市のやろうとしていることは、愚の骨頂と言っていい。