巡り巡って

 何気なく、書棚から一冊の本をとって、それを持って風呂に入った。前にも書いたと思うけど、ワシャは湯船につかりながら本を読む。透明のプラスチック製のケースに本を何冊か収納して持ち込む。ワシャの家の風呂場には湯船から届くところに棚があって、そこにケースと乾いたタオルを置いておくのだ。
 ザザーァと湯をかぶって、湯船に飛び込む。手を伸ばしてタオルを取り、両手の水けを拭き取って、ケースの中から本を取り出す。
『禅語エッセイ』(リベラル社)という本である。
http://list.liberalsya.com/?eid=193
 この本はもう4年も前に買った本だ。本といっても字も大きく、見開き2ページで「禅語」をひとつずつ解説するというもので、普通の人でも流し読みであれば小一時間で読めてしまう。
 あるページを開いてみる。右に大きめの字で「必要なものはすべてある」とタイトルがあって、その次に文が続く(詩は面倒くさかったら飛ばしてくだされ)。

何も持たずにうまれてきたのに 
私たちは育ちながら 
あらゆるものを獲得していく。

他人と自分の境界線をきっちりと引き、
他人と自分を見比べながら 
他人が持っているものを
「自分も欲しい」と思ってしまう。

けれど、本当は
あの人や私の所有物も、
あの人の才能や私の能力も
すべて天からの借り物。
旅立つときにすべて天に返すだけ。

あなたはすでに
必要なものを天から
貸してもらっている。
たとえ自分が欲しいものとは違っても、
他の人が持っているものとは違っても、
あなた用にちゃんと貸してもらっている。
あなたに必要なものはすべてある。

 以上が「必要なものはすべてある」という詩のようなものですね。で、文末に、本文より少し大きめの文字で「無一物中無尽蔵」と記してあって、この「禅語」のことを語ったものが、前記の詩のようなものということになる。
 見開き全ページの左側に樹木のイラストが添えられていて、ページの下から5分の1くらいのところに地面を表した直線が引かれている。その下にも小さく「無一物中無尽蔵」(むいちもつちゅうむじんぞう)と書かれ、本来の漢語の意味「無に徹し、何ものにも執着しない境地に達すると、宇宙に存在するものみなが、全自己である。」と解説が示してある。
 まことに親切な禅語解説本であり、禅語入門書としてはこれで充分であろう。

 その本を湯船で4年ぶりに読んでいた。読んでいて、125ページで「おや?」と思った。全体のレイアウトとして余白の多い仕上がりになっているのだが、樹木の脇の余白に、ポツッと赤いしみがあるではないか。「あれれ、なにか落しちゃったかなぁ」とよくよく見れば、それは印刷だった。もっとよく見れば、イラストの樹木に赤い実がなっていて、それが落ちている途中の赤だった。
「え、このイラストはページごとに違うの?」
 あらためて見直せば、おおお、最初のページ(13P)には字以外なにも描かれていない。「本来無一物」であった。
 わ!よくよく見れば、小鳥が赤い実を加えて飛んで来て、ページの左の地面に降りて、そこで実を食べて去っていった。雨が降って、陽が照って、29ページで芽を出した。
 芽はぐんぐんと伸びて、葉を繁らせ、63ページで黄色い花をつけた。少しずつの変化なので、花が増えていくのも、実が育っていくのにも気がつかなかったなぁ。実が赤くなり始めて落ちるまでに20ページも費やしているので、字ばかりを追っているワシャはイラストの変化を見落としていた。
 4年ぶりに、実が落ちた125ページで「あれ?」と思ったわけです。

 これはパラパラマンガだった。いやいやパラパライラストだった。すばやくページを繰ってみると、見事に種から目が出て樹木になって、花が咲き、実が熟し、葉が落ちて、枯れ始め、枝が落ち、幹が折れ、雪に埋もれ、歳月が過ぎればそこに樹があったことすら消えてしまった。
 禅の教えの「無常」である。
 今のワシャの心境にも通じるものがある。舞台から退場すれば、そこにあるのは空(くう)ばかりであり、樹木の痕跡など歳月とともに消え去ってしまう。無常よのう〜(遠い目)。
 救いはね、再び鳥がやってきて、雨が降った後に小さな小さな芽が出たことである。
 この本はこれを「〇」(円相)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%9B%B8
でまとめている。

 読み直してみて、本というものは一度ばかり読んだのでは、その本質を見極めることはできないということに気がついた。4年前は、字の方、禅語の解説ばかりに目が言っていて、この本の大切な仕掛けを見落としていた。この本としては文章のところよりも何も語らないイラストの部分のほうに本質があったのだ。本読みとしてはまだまだ甘いと実感した。
 読み直してよかった。