司馬遼太郎

 この日記でもっとも登場してくる作家が「司馬遼太郎」であろう。それはワシャが司馬遼太郎さんを敬しているからに他ならないわけだが、それは作家としてというよりも思想家としての大きさに圧倒されてのことなのである。
 鷲田小彌太『昭和の思想家67人』(PHP新書)にも、丸山真男吉本隆明松下圭一とならびで書かれてはいるが、昭和の思想家の中では抜きんでた存在だと確信している。盲信かな(笑)。
 鷲田さんはこの著書の中で司馬遼太郎をこう規定する。
国益(ナショナル・インタレスト)を第一の中心価値におくことを肯定はしないが、日本の伝統をも含めた歴史に固有な連続性に、きわめて冷静なしたがって持続可能な愛をそそぐのである。》
 要するに、司馬遼太郎は、連綿と続いてきた歴史、伝統、文化を愛した人であり、そのことを小説やエッセイで、解りやすく解説をしてくれた人ということ。
 司馬遼太郎のもっともよき理解者は、書誌学者の谷沢永一さんである。『司馬遼太郎が考えたこと15』(新潮社)に「私事のみを」という短い文章があって、そこで司馬さんは谷沢さんのことを高く評価をしていた。
《小説は、いわば作り手と読み手が割符を出しあったときにのみ成立するもので、しかも割符が一致することはまずなく、だから作家はつねに不安でいるのである。(中略)だから、いつもこの道の者は割符を持って砂漠を歩いているようなものである。私の場合、幸運だった。沙上でにわかに出くわした人が谷沢永一氏で、「これ、あんたのだろう」といって、割符の片方を示してくれた。割符は巨細なく一致していた。こんな奇蹟に、何人の作家が遭うだろう。》
 谷沢さんに出逢えたことを、喜んでいる司馬さんの気持ちが行間からにじんで来るような文章ではないか。
 その谷沢さんも司馬さんを高く敬している。昭和60年に出版された『円熟期 司馬遼太郎エッセンス』(文藝春秋)である。その後記を引く。
《私にとっては、司馬遼太郎を同時代人として持ち得た事が、何よりの幸運であると痛感させられるのである。視野の狭い一知半解の渉猟ではあるが、若き日の私は『プルターク英雄伝』やラ・ロシュコーフやサマッセト・モームや『論語』を通じて、人生の知恵を僅かながらも培おうと努めたものの、これらの卓越した著者たちの孰れもが、所詮は外つ国びとである故の微妙な間隙を免れない。そこへ現れた瞠目すべき司馬遼太郎は、もう一度くりかえすが少なくとも私にとっては、始めて日本人の中に見出した最も包括的な人生の師であった。》
 ワシャは残念ながら、司馬遼太郎の同時代人としては間に合わなかった。司馬作品を猛烈に読み込むのは、司馬さんがお亡くなりになられてからになる。司馬さんの謦咳にふれることは叶わなかったが、それでも司馬さんが残した膨大な思想に触れることは充分にできる。司馬さんの天を突くような思想に触れるとき、己の矮小さを自覚することができる。ときにそれは感動を呼び涙ぐむことすらある。
 司馬遼太郎、畏るべし。まだまだ人生の勉強が足りないと感じる今日この頃なのであった。