愚人、夢を語る

《むかしは、毎夜のように夢を見ていた。その夢の話を司馬さんにしても、いつも、「愚人、夢を語る」と言って、からかわれていた。》
 昨日亡くなられた福田みどりさん
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141112-00000047-asahi-soci
が上梓しておられる『司馬さんは夢の中2』の冒頭にある文章である。
 みどりさんは、夢をよくみるようで、その夢が現実なのか、現実が夢なのか、ときにわからなくなることがあると書いておられる。みどりさん、夢を見やすい体質なんだろう。要するに眠りの浅い人だったに違いない。
 司馬さんがお亡くなりになった後に、何度も司馬さんの夢を見たと言われる。だが、夢を見ながらも「コレハ夢ナノヨ」と自覚しながら、夢の中の司馬さんに向かい合っていたそうだ。それもすごいね。
 司馬さんの文章は、それこそ膨大な量である。司馬さん好きなワシャでも、おそらく全部に目を通しているわけではない。でも大半は読んでいると思う。あたりまえのことであるが、司馬さんの文章は司馬さんの一人称で書かれている。だから司馬さんの精神、思い、志のようなものには、ずっと浸ってきた。
 対して、司馬さんを外から見るということに関しては、司馬さんを司馬さん以外の人が書いた文章を読むに限る。いろいろな視点から見ることにより、人間司馬遼太郎が浮き上がってくる。
 だから、司馬さんの友人や知人の書いた文章もなるべく集め、読むことにしている。
 例えば、文藝春秋で司馬さんの担当編集者を務めた和田宏さんの『司馬遼太郎という人』(文春新書)は、司馬さんの素顔の見えるいい本だと思う。あるいは谷沢永一さんの『司馬遼太郎』(PHP)は、さすが司馬さんに「自分の持っている割符の片割れを持っている人」と言わしめた書誌学者である。司馬さんの本質をみごとに伐り出している。
 それらの司馬さんに関する書籍と比べると、みどりさんの『司馬さんは夢の中』(中央公論新社)は情緒的にすぎる。だけど、だからこそ見えてくる新たな司馬遼太郎像みたいなもの、風景としての司馬遼太郎が行間から浮き出ている。

「でも、いいの、いいでしょう。司馬さん」
「私も七十を過ぎた。このあたりで充電しないと、このまま老い朽ちてゆくばかりである。ああ、いやだ、いやだ」
 普通の女性の言葉で書かれている。司馬調が好きなワシャには少し柔らかすぎるが、でも、いい本ですので手に取ってみてください。福田みどりさんのご冥福をお祈りします。

 そうそう、タイトルにした「愚人、夢を語る」の出典を探したのだけれど、ついに見つからなかった。