東京散歩

 4時半起床。
 昨日の榎木孝明さんを、まだ引っぱっている。表題は、榎木さんが1995年に出された画文集のタイトルである。榎木さん、とてもあわい水彩を好んで描く。この画文集で榎木さんは「束の間」という言葉を使う。「赤い月夜の祭典」という絵の添え文では、「束の間の生を象徴しているかのようで、人は皆、花火が好きなのだろう」と言っているし、あとがきではこう書いている。
「絵を描いていると、ふと目の前の景色がつかの間の幻影に思える時がある。そんな時、今何が一番大切なのかをふと思う時でもある」
 榎木さんは「束の間の生」を川の流れに見る人である。『東京散歩』の中にも川面や川辺の風景が多い。ご自身も「絶え間なく流れる川面を見るのが昔から好きだった」と言われる。
 川の流れは滔々として、昔から同じ流れであろう。しかし、その流れは束の間の旅人で、留まることはない。
『この今を生きる』(講談社)は榎木さんが2000年に出されたエッセイ集だ。ここでも榎木さんは言う。
「人間の意識で時の流れは速くも遅くもなる。例えば、二十一世紀を間近に迎えようとするこの世紀末に、この西暦二千年間の気が遠くなるような人類の時間のつみ重ねが、宇宙創世からの遥かな宇宙空間ではアッという間の悲しいほど短い時間になってしまう」
 人類の歴史すら「束の間」なんですね。人の一生なんてもっと短い。日野原重明さんや篠田桃江さんでも百年そこそこだ。その二人にしたって人生の中で言葉を交わし、知り合いになり、愛し、憎み、傷つけあった人間がどれほどいるだろう。おそらくそれほどの数にはなるまい。
「寸暇惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか」
 寸暇を自覚的に使わない人、無為にこれを積み重ねていく人にとって一生はあっという間の瞬きだろう。