たかが

《作家の曽野綾子氏が「日本でも移民を受け入れた上で、居住区を分けた方がいい」と2月11日付の産経新聞コラムで主張した件について、「ロイター」や「ウォール・ストリート・ジャーナル」といった海外メディアが、批判的に報じている。》という報道。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/13/sono-ayako-column_n_6677760.html
 曽野さんの問題(笑)のエッセイ『透明な歳月の光』はこちら。
http://open.mixi.jp/show_diary_picture.pl?owner_id=22065918&id=1938657283&number=35
 この記事が「人種差別主義者」「アパルトヘイト擁護者」と糾弾されるもとになった。そして左人権教の団体が、曽野さんに「謝罪」と「記事の撤回」を求めているのだそうな。

 曽野綾子さんの著作に『晩年の美学を求めて』(朝日新聞社)がある。10年くらい前の本で、その中にこんなフレーズがあった。
「善は言葉で言うものではなく行動で示すものであり、悪は口先だけで盛大に言って実行しないのが、羞恥を知る者の行為」
 作家とはそんなものだと言われながら、こう続ける。
「口先だけで悪事や不道徳の話をしても、すぐに糾弾される時代になった」
 それは現在さらに加速され、ネット上で炎上を起こすなどということがたびたびある。まさに今回の記事がそうなっているわけだ。

 ワシャは曽野さんの本をかなり読んできた。そして曽野さんが人種差別をする人ではないことを十分に知っている。件のエッセイにしても、きれいごとばかりを言い立てる左巻の文章と違って、活き活きとした寸鉄を行間に潜ませた素晴らしい文章だ。とても曽野さんらしい。その寸鉄、毒、悪にみごとに引っ掛かったのがヒダリーの皆様なんですね(笑)。

 この一連の左筋の盛り上がりについて、曽野さんは「新潮45」の4月号で触れておられる。題は《「たかが」の精神》である。曽野さんは、声高に謝罪を求める連中にこう諭す。
「たかが作家ではないか。作家がいい人であるとか、学問的に正しいとか、徳の高い人であるという保証はどこにもなかった。今もない、そう思っている」
 おそらくイデオロギー煮しめられた人権原理主義者の皆様には、この言葉も理解できないだろうなぁ。
 曽野さんの行間に潜む毒や悪を楽しむ余裕を持ちましょうよ。