本来無一物

 本来無一物、「ほんらいむいちもつ」と読む。出典は『六祖壇経』(ろくそだんきょう)。支那禅宗の第六祖慧能(えのう)の説法集に出てくる言葉である。
 語意は「事物はすべて本来空(くう)であるから、執着すべきものは何一つない」ということ。
 もちろんワシャはそんな小難しいものは読んでいない。もっともっと簡単な、ひらたえつこ『禅語エッセイ』(リベラル社)を風呂に浸かりながら読んでいたのだ。そこでこの言葉に突き当たり「はた!」と立ち上がってしまった。
《私たちのいのちが始まったとき、何も持っていなかった。私たちのいのちが終わるとき、何も持っていけない。》
 これについて慧能はこう言っている。
「菩提はもとより樹でなく、鏡もまた鏡でない。本来、無一物であるのに、どこに塵がつくところがあろう」
 ちょいと解りにくいですが、ワシャもよく解っていませんが(笑)、「悟りの境地を示せ」という師の問いに慧能はこう答えたわけだ。それが後世に「本来無一物」という禅語として伝わった。
 難しいことはさておき、ひらたえつこさんの「いのちが終わるとき、何も持ってはいけない」に蒙が啓いた。そうだよね、いろいろなものに執着しても、なにもこの世から持ち出せない。己の身すら置いていかなければならないのだから。「本来無一物」なのである。こだわらない、こだわらない。とらわれない、とらわれない。ケセラセラ、なるようになる。とは言ってもねぇ(苦笑)。