無念無想の難しさよ

 ワシャは今「禅」に興味を持っている。だから坐禅などに関しても、その関連の本を読んで試したりしているんですよ。でもね、表題にある「無念無想」というものがけっこう難しいのじゃ。
 時間が取れればね、10分〜30分くらいは坐禅をする。まず座布団を2枚重ねて置く。上の1枚を二つおりにして、そこに尻に降ろす。正式な結跏趺坐(けっかふざ)だと足が痛く、瞑想どころではなくなってしまうので、半跏趺坐(はんかふざ)にしている。手は足の上で法界定印(ほっかいじょういん)に組んで、目は半眼で光を調節する。これで坐禅としては完成する。しかし、坐っている間じゅう、ワシャの脳裏にはいろんなことが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
 楽しいこと。友達の顔。仕事のこと。食いもの。嫌な奴。体調のこと。悲しかったこと。将来への不安。本の話。このヒラメキをメモに書いておかなければ……。死んだらどうなるべ。坐禅の組み方はこれでよかったかな。失言。玄関のほうで足音がする、誰か来たかな……などなど、次から次へと脈絡もなく、脳の中に残っている念が湧いてくる。
『一日10分の坐禅入門』(角川oneテーマ21)の著者で医師の高田明和さんは《「念を起こさない」という訓練が禅》と言われる。また《坐禅の間に妄想が浮かんだら「坐禅をすればすべてよくなる、坐禅をすれば、すべてよくなる」と自分に言いきかせて、坐禅を続ける気持ちが必要です。》とも。
 しかし、臨済宗の中興の祖といわれる白隠禅師ですら、「坐禅中に、三年前に隣の婆さんに黒豆を貸したことを思い出した」と言っているくらいだから、ワシャらのような凡夫が、心にいくつものを妄想が浮かぶのも仕方ないだろう。
 山岡鉄舟ゆかりの高歩院の住職大森曹玄禅師は、《心がある以上いろいろと想起するのもやむをえない。ただそれからそれへと連想し発展させ、起こった想念を自分みずから育ててゆくのがよくないのである。またそれを「ソラ妄想が出た」と、非常に悪事でもしたかのように、苦にして相手にするのがさらに一層悪い。》と『参禅入門』(講談社学術文庫)の中で書いている。
 坐禅中に妄想は起こってもいい、いいことも悪いことも含めて妄想というものは瞑想を邪魔しにくる小鬼だ。心を取り戻すためには、この小鬼を相手にしてはいけない、ということらしい。