人助けをするということ

 ようやく「アイス・バケツ・チャレンジ」が収束してきたようだ。浮かれ騒ぐ者どもに冷水を浴びせかけた北野武あたりの対応が際立った。今回の騒ぎで、ビル・ゲイツあたりが普通のアメリカ人だということが判ったのは拾いものである。

 昨日、TBSの報道特集で「コンテナハウス物語」と題した放送があった。
http://www.tbs.co.jp/houtoku/onair/20140906_2_1.html#
 この話は大阪府守口市が舞台である。親がクズのために満足に食事がとれない子供たちがいる。その子たちに、食事を提供するコンテナハウスを運営する女性牧師の活動を追う特集である。
 女性牧師は、食事のとれない子供たちのために何かできないかと悩んでいた。そんなある日、ネットでコンテナハウスが10万円で売っているのを見つけて、すぐに行動する。う〜む、このあたりはのろまな行政と決定的に違うところだろう。そして私財を投げ打って集まってくる子供たちに食事と居場所を提供している。
 この活動に対して、府も市も一切の助成はしていないという。それはコンテナハウスがコンテナハウスであるので、そういった施設として見なされないということらしい。だから女性牧師は支援者から古着をもらったり、賞味期限が切れそうな食材の提供をうけ、なんとかそこを維持しているのである。
 こんなこと本来は行政がやるべきなのだろうが、番組を見ていると、行政では無理なんだろうな……と思いはじめた。そもそも子供たちに接するのに、行政では「愛」がないのである。その日のコンテナハウスの夕食は、お好み焼き半切れであった。それでも子供たちは喜々として女性牧師の焼くお好み焼きを待っている。府や市は、不幸な子供たちに人並みの食材を提供することができるだろう。しかし、そこに「愛」というスパイスが存在しなければいけない。子供たちは食事に飢えている。しかしそれ以上に「愛」を求めているのである。
 女性牧師は言う。
「まず身の回りにいるこういった子供たちに手を差し伸べたい」

 バケツの氷水をかぶるのも結構だが、そこばかりにピンポイントでスポットライトを当てると、その周囲にいるやはり助けの手が必要な人々がぼけて見えなくなってしまう。
 ビル・ゲイツをふくめて、楽しく騒ぐのもいいけれど、もう少し自分の身の回りでそれぞれができる範囲で気を配った方がいいのではないか。

 昔は、村から成功者がでると、その村の貧乏な家の子供に飯を食わせたり、あるいは優秀であれば勉学をする環境を与えたりした。小さなコミュニティの中にお互い助け合う仕組みがあったものだが、社会主義が蔓延した日本では、そういった善きものが消えてしまったのだろう。
 守山市の女性牧師は孤軍奮闘している。テレビを見た近所の人たちが活動を理解して援助の手を差し伸べてくれるといいのだが。