漢の劉邦が皇帝になった年(紀元前206年)、はからずも漢帝国の北に強大な遊牧民族国家が成立した。冒頓単于(ぼくとつぜんう)が統べる匈奴である。
中原に成立する中華誇りをしたい帝国から言えば、周辺の民族など後進性の強い獣の集団のような扱いでしかない。獣とまで言わずとも、僻陬の地に棲む異族であって、支那人の地理感覚の外、化外の地といった認識だった。だが、この辺境で蠢く集団があなどれない。
《毎年秋風が立ちはじめると決って漢の北辺には、胡馬に鞭うった剽悍な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民は掠められ、家畜が略奪される。》
中島敦の『李陵』の一節である。毎年毎年、台風に襲われる日本列島のように、農耕民族の支那は、騎馬民族の匈奴に襲われてきた。
言ってしまえば、一時期の漢は匈奴の属国だった。漢の高宗の時期に匈奴と戦って敗北して、BC198年に漢と匈奴は和す。以来、漢は匈奴の属国として、約半世紀にわたって貢物、公主(皇帝の娘)を差し出して平和をあがなってきた。和したとはいえ、匈奴は我が物顔で北の大地に跋扈した。匈奴は、漢が属国となったその後も侵すことを止めず、北辺を蹂躙し続けた。中華思想の好きな支那人にすれば、肯んずることのできない過去だろう。しかし事実だ。
半世紀が過ぎて、武帝が登場することにより匈奴への強硬政策に転換する。長年の臣属関係を破棄したのである。このことにより漢、匈奴は全面戦争状態に陥る。この大戦の一つのエピソードが『李陵』であった。
さて、話が長くなっているが、武帝より匈奴征伐を命ぜられた李陵のことである。まず、中島敦の『李陵』のあらすじを踏まえておく。
「李陵は武帝の命により、わずか5000の歩兵で出征し、匈奴軍10万とよく戦い、苦しめたが衆寡敵せず全滅の憂き目にあう。李陵は生け捕りになり匈奴の捕虜となる」
司馬遷の話も挟まるが、主題と関わりがないのでここでは触れない。あらすじを進める。
「李陵は、匈奴の王の降将の勧めにも従わず、虜囚の辱めに甘んじていた。それは、匈奴王の首をとるチャンスを狙っていたからにほかならない。何年かが過ぎて、武帝の側近の讒言により、漢に残してきた李陵の一族が皆殺しになったことを聞く。やがて武帝身罷って大赦が出る。旧き友人たちも李陵の帰国を勧めたが、ついに李陵はそれに応ぜず、胡地に死んだのだった」
というような物語である。
さて、何を言いたいかというと「そもそも武帝がみんな悪い」ということに尽きる。まず、10万の匈奴軍、それも騎馬軍団と戦わせるのに、5000の歩兵しか与えないというのは軍事を知らぬ阿呆と言っていいだろう。敗けるのは必然であり、そして捕虜になるのも当然と言える。
敵に捕らわれて帰ってこない。これは、本邦の戦国時代における黒田官兵衛の有岡城幽閉の話とまったく同じである。官兵衛の消息がわからなくなって「敵に協力しているのでは」という噂に、織田の武帝である信長が、「官兵衛の嫡男を殺してしまえ」と下命する。この命に従わず嘉寿丸(後の長政)をかくまうのが、軍師竹中半兵衛だった。日本の話は、親子の再会でいい終わり方をするのだが、彼の国は、李陵が裏切っていないにも関わらず、三族皆殺しという悲惨な結果になる。李陵の友人達も武帝を怖がってなんの抗弁もしない。唯一、李陵を庇ったのが司馬遷なのだが、彼はそのために宮刑に処せられる。これも武帝という余地のない阿呆な独裁者の罪と言えよう。
最近、どこぞのブラック企業やいい子になりたがる組織が「少数精鋭」を打ち出すけれども、そんなものではないということを知っていただきたい。紀元前から、なにごとか仕事をするのには人の数が要るのである。10万の匈奴に対抗するには10万の漢兵がいなければどうしようもない。部下を最前線に送って、成果を求めるならば、手厚い陣容と充分な物資を与えて征かせる。精神論では、2000年前の悲劇を繰り返すばかりだ。おっと、つい70年前にも「少数精鋭の精神論」で潰れた国家がありましたね。