読書は楽し。でも寝床ではリラックスできるものを

 ワシャの寝床には『司馬遼太郎が考えたこと』(新潮文庫)全15巻が揃っている。そればかりではなく司馬さんの小説、エッセイ、紀行などが文庫を中心にずらっと並んである。

 司馬文献、司馬関連本は書庫に全集から雑誌のコピーまでよほどのものは配架してあるつもりだ。『司馬遼太郎が考えたこと』も単行本が15冊あるんだけど、布団に入ってから階下の書庫まで取りにいくのは面倒なので、それなら枕元に揃えておけということになった。それが『司馬遼太郎が考えたこと』だけではすまなくなって、『街道をゆく』も読みたくなるし、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』も読みたいので・・・ということでだんだん寝床が狭くなっているのじゃ。

 

 そんなことはどうでもいい。夕べ、ちょいと寝つかれなくて、枕元に手を伸ばして本を取ったら『司馬遼太郎が考えたこと』の第7巻でたまたま開いたところが昭和47年11月の講演録で「日本の明治維新前後における朝鮮・日本・中国という国の元首の呼称について」と題されたもので、普通、こんな面倒くさそうなのは寝る前に読んではいけません。

 しかし読んでしまいました。目が覚めました。

 支那の元首は「皇帝」と呼ぶ。習近平は「皇帝」と呼ばれたくて必死に活動をしている。朝鮮は「王」である。これは完全なる支那冊封体制に組み込まれた民族元首の呼ばれ方で、支那の属国であるという証明と言っていい。

 さて、日本である。日本の国家元首は「天皇」である。この呼称が歴史上に登場するのは6世紀からで、その証拠として中宮寺仏画に「天皇」という記載があるからだと司馬さんは言う。6世紀というと聖徳太子の活躍した時代で、聖徳太子支那の皇帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と書簡を送ったことはあまりにも有名だが、聖徳太子はこの書簡の中で「天皇」と「皇帝」と同列に扱っている。四方の蛮族がみな支那皇帝にひれ伏す中(朝鮮もね)、日本だけが毅然と「同格である」と言い切った。この聖徳太子の毅然たる態度に日本人は感動するのである。だから1万円札になっているんですよ。申し訳ないけれど、福沢さんとか渋沢さんとは格が違っている。

 この元首の呼称が朝鮮民族には気に入らない。なにせ「皇」の字を使えるのは北京におられる支那皇帝お一人なのである。だから皇帝の使いがくれば、朝鮮王はソウルの西にある迎恩門までおもむき、そこで地面に土下座をして九跪三叩頭(きゅうきさんこうとう)の礼をする。

 この礼、臣下が皇帝に対しておこなう最敬礼とされており、皇帝の家来の宦官が号令をかけるのを合図に、朝鮮王は土下座し、「一叩頭(イーコートゥ)、再叩頭(ツァイコートゥ)、三叩頭(サンコートゥ)」という号令の度に頭を地に打ち付ける。再び立ち上がり、再び土下座をしてまた同じ行動をとる。さらにもう一度だから通算9回、頭を地面に叩きつけてこの礼は終了する。

 これ、ワシャが奴隷でもこんな礼はとりたくない。それを一民族の元首が皇帝ではなく、皇帝の臣下である宦官に対して行うのである。これは民俗性を損なう行為だったと言わざるをえない。

 もちろん不遜な聖徳太子が先鞭をつけてくれたおかげで、日本の天皇はそんな屈辱的な礼をとったことは一度もない。それが日本人の2000年の誇りになっていると言っても過言ではあるまい。

 

 この朝鮮、日本、支那の元首の考え方、それぞれの体制が相手元首に対しての考え方などが、2000年経っても変わっていないことに驚かされる。

 習近平皇帝は、「天から命を受けた世界秩序の中心の人」だと思っているし、習近平を支える共産党(帝国)幹部にしたって、皇帝に対する好悪の感情はあっても、そこに従っていけば大きな富を手に入れられるから、宦官たちのように侍ってご機嫌を取る。

 朝鮮にしても古代からなんら変わっていない。例えば、日本を見下すこと甚だしいでしょ。なぜか朝鮮民族は現実を見ずに、序列とか秩序を重んじて、民族の元首が「皇」の字を使うことに極度の不快感を表す。そして「華夷秩序も知らぬ野蛮人め」と見下す。

 端から日本はそんな属国を相手にしていないから、明治維新が成立した際に、清国やその他の諸外国には通知をしたのだが、朝鮮には室町時代からの慣例に従って、対馬藩を通じて政権交代の事情を連絡した。この中に「皇」の字が使われており、朝鮮は烈火のごとく怒り、対馬藩の書簡を突き返したそうな。

 なんだか最近も似たようなことが度々あるでしょ。韓国が日本から輸入したものを北朝鮮横流ししていて、それを問題視した日本がルールを厳重にする(といっても書類数枚の話)と決定したことを受けて、烈火のごとく怒り狂ったでしょ。150年前と何も変わってはいないのだ。

 

 安倍元首相が亡くなられて、各国の首脳は次々と弔意を示した。あのプーチンですら、けっこう名分の弔意文を送ってきた。しかし、韓国はかなり遅れた。それは、2000年の華夷秩序に照らせば、朝鮮半島の下位にいる野蛮な民族の首相が死んだくらいで、「そうやすやすと弔意を示せるか」という思いがある。さらに習近平皇帝に至っては、同様の想いの上に「たかが元首の臣下ではないか、その程度の下っ端に天から命を受けている朕が弔意など示せるものか」ということなのだ。

 

 というようなことを、司馬さんの講演録を読みながら思っていたら、寝そびれるのは当たり前だった。