敬して遠ざけよ

 徳川家康の四天王に本多忠勝という猛将がいる。忠勝、五十をこえる合戦に出陣した。そのたびに矢玉の降りそそぐ戦場で、名槍を振るい敵兵をなぎ倒してゆく。その姿は敵からも高く評価されている。
「家康に過ぎたるものは二つあり からのかしらに本多平八
 彼は生涯にわたる全ての戦(いくさ)で、かすり傷ひとつ負わなかった。刀剣が、矢玉が、むこうから避けていく、そんな鬼神のような将であった。
 しかし、本多忠勝はただ勇猛なだけの男ではない。こんなエピソードが残っている。
 九州の立花宗茂という戦国武者が忠勝と膝を交える機会があった。宗茂は弱冠二十歳の若者だったが、忠義の心と勇猛な気を併せもつ男だった。忠勝とは年齢的には親子ほどの開きがあったが、それでも豪傑どおし呼び合うものがあったのだろう。忠勝は宗茂を訓導し、宗茂は忠勝の言をよく守った。
 あるとき忠勝はこう言った。
「上に立つ人間は、下のものの欠点がよくみえる。だからといってそのまま責めてしまっては相手の逃げ場がなくなる。人を使う上でそれはよくない」
 部下には長所もあれば短所もある。長所がそのまま短所につながり、短所が実は長所だったりもする。
 だから逃げ場を奪ったり、恨みを残すようなかたちでの人事はよくない、と忠勝は言う。

 少し話は古くなる。紀元前の支那のことである。
 秦の始皇帝が没し、大陸のあちこちで反乱が起きはじめた。その中で楚(そ)の名門出身の項羽と、沛(はい)のチンピラだった劉邦が力をたくわえ、4年間の激闘の末に、劉邦が皇帝になる。漢王朝の始まりであった。
 この歴史の中にこんなエピソードがある。まだ項羽劉邦も秦軍と戦っている時のこと。関中(地名、秦の中心)に劉邦が一番乗りをする。その後、大軍を率いる項羽やってきて、関中に入る(この時にいろいろあるわけだけど省略します)。大軍を有するゆえに、項羽が主導権を握って、関中を掌握する。ここで論功行賞が行われた。複雑ないきさつはあるにせよ、一番乗りをしたのは劉邦である。劉邦に手厚くても誰も文句は言うまい。しかし、項羽のナンバー2である范増が劉邦を嫌い、巴蜀(巴はミミズ、蜀という字にも虫が使ってあり、どちらも人の住むところではない下等な土地という意味)に封ずる。一番乗りを考慮すれば左遷である。

 この劉邦の人事を決めた項羽軍の范増について、やはり同じ項羽軍の武将だった韓信(後に劉邦に従う)がこう言っている。
「范増はすぐれた策士だが、しかし広い天下を料理して帝国を興すような器才の男ではない」
 なにしろ人の好悪で論功行賞をするのは洋の東西を問わず禍根を残す。項羽、范増の行った人事はまさにそれだった。一言で決めつけるならば「狭量」なのである。ゆえに将相たちの不満は大きく、やがて帝王の項羽を「四面楚歌」の状況に追い込んでいったのである。
 遠ざけるならば、敬して人にあたらねばならない。そういうことを歴史は物語っている。