仙石秀久

 仙石権兵衛ともいう。戦国の武将である。美濃の斎藤氏に仕え、その後、織田信長に拾われる。秀久、なかなかの武者ぶりで、その雄姿風貌を信長に気に入られて、羽柴秀吉馬廻衆に組み入れられた。
《少年のころから気が強く、機転もきいたが、しかし思慮の浅いところがある上に、異様に自己顕示欲が強かった。(中略)ひとに負けることがきらいで、同僚との競争心から物事を判断する癖があり、このため権兵衛は一代のうち、自分の責任でおこなった作戦では、一度も成功したことがない。》
 これは、司馬遼太郎の『播磨灘物語』に出てくる仙石権兵衛の記述である。司馬さん、人を評じることにかけては天才だ。司馬さんの手にかかると、史書のなかの人物が立ち上がり、その人となりが浮かび上がってくる。
 司馬さんは「異風の服飾」というエッセイの中にも権兵衛を書いている。ここには、成り上がりの大名として前田利家も登場するのだが、両者の書きぶりはずいぶん差がある。まず権兵衛の記述。
《こういう似而非(えせ)大将ほど、自分の無能を権威と装飾によってかくそうとするせいか、自己顕示欲を露骨にあらわしたような異様の服装をしたがるようであった。》
 利家はこう書く。
前田利家は少壮のころから律義者でとおっていたし、晩年にはいかにも質実ということばを絵にかいたような人物になったが、かれの直話をあつめたという「亜相公御夜話」もよると、若いころは、「異風好みのかぶき者であった」という。》
 利家に比べると、権兵衛の文章がきびしいと思いませんか。ここばかりではなく全体を通して利家にやさしく、権兵衛には冷たい。司馬さん、歴史の精霊たちにはおおむね好意的なのだが、どうも権兵衛は歯牙にあわなかったようである。
 でもね、ワシャはそれほど権兵衛が嫌いではない。気が強く、機転がきいて、思慮が浅く、自己顕示が強い……そんな人間ってけっこう巷に思いあたる。