幕末に「水戸天狗党」という集団があった。
だいたいワシャが歴史の話を始めるときは、身辺雑記や時事ネタがまとまらないときなんですね(笑)。
おそらく大方の方は、高校の教科書で一度くらいは見たことがあるだろう。水戸藩の尊王攘夷派が筑波山で挙兵し、1年に渡って抵抗を続けながら、関東から信濃、飛騨、越前と西に向かった。軍容は騎馬武者が200騎、総数1000を超えていたというから、なかなかのものである。結果、越前に着いたところで投降する。 その後、敦賀で処分されるのだが、その末路は悲惨だ。
幕府から執行官として出向いてきたのは、田沼意尊(おきたか)という若年寄であった。遠州相良一万石の大名である。一万石程度の譜代大名は徳川の高級官僚といっていい。
この真面目な官僚が苛烈だった。天狗党に対して凄まじい虐殺をした。おそらくこれ以前にも以降にも、日本史にそんな例はない。
その男の家は、関ヶ原以来の大名ではない。江戸中期のご先祖様に成り上がり者が出て大名になった。ご先祖様は九代将軍家重を支えた田沼意次である。
田沼家は代々紀州藩の足軽だったが、八代将軍になった吉宗に従って江戸入りをする。そこからとんとん拍子に出世し、意次39歳の時に万石の大名になった。どうであろう、足軽の扶持は何俵という世界だから、そこから大名になるというのは途方もないことである。さらに五万七千石にまでなり果せたのだから大したものだ。宝暦8年(1758)9月3日、意次が大名にならなければ、天狗党の悲劇(1865)も起きなかったかもしれない。
歴史はつながっている。