野狐禅(やこぜん)

 昨日、読書会。議論、白熱。その後、軽く飲む。その席でのこと。
 話題が前回の『禅と日本文化』の話になり、その際にメンバーの一人が「坐禅をやってみたいんだわ。ワシャさん、どこか知っているところない?」と言い出した。
 ワシャは「だったら、永平寺はどうでしょう」と提案する。メンバーは「いや、それはちょっと遠い。近くでないかなぁ……」とためらう。
 う〜ん、近くでか。隣町で坐禅が体験できるところがあるらしいが、どこでやっているかまでは知らない。
「なんならワシャの家でやりますか?」
 と、思わず口走ってしまった。これを野狐禅と言う。
 このところワシャは「禅」「坐禅」に関する本を読み漁っている。だから坐禅の組み方などは知識として理解した。しかし、坐禅の本質などまったく分かっていない。今も書庫の中で坐禅をしていたけれど、20分坐っていることができなかった。その程度のなまくらである。にも関わらず、一瞬とはいえ、偉そうに人に対して指導をする気になってしまった。
「にせものの禅。野狐はきつね。よく人を化かすことから転じて、真実の参禅弁道をせず、また悟境にも到達していないのに、いたずらに棒喝して、得々としていることをいう」
 まさにこれだった。飯塚関外居士は『禅のこころ』(講談社現代新書)の中でこう言っている。
《禅は生活そのものである。実践活動のなかで禅は育って行くのである。だから体当たりの実践(修行)のない禅――本を読んでわかったつもりの文字禅や生悟りに鼻を高くしているような野狐禅――このような禅のレッテル泥棒のごときは、禅の寄生虫に過ぎない。》
 厳しい。