この間、ある人と「無」について話をした。ワシャはここ2年ばかり「禅」に関する本を読み漁っている。だから「無」について言えば、その友だちより知識があると思っていた。
しかし、話をしているうちに愕然とした。その人はワシャよりもかなり若い人なのだが、話の内容からも「無」について体得しているのが解るのである。
ワシャは百冊も本を読んで「禅」について知ったつもりでいた。だがしょせんは本を読んで、適当に坐禅を組むくらいの「野狐禅」だということは自覚しているつもりだった。
それでも「禅」をまったく知らない……いやいや「一度鎌倉で坐禅を組んだことがある」と言ってたなぁ。関わりと言えばそのくらいで、「禅」とか「仏教」系の本は読んでいないはずだから、少なくともワシャは「野狐禅者」とはいえ、素人よりも「禅」を知っているはずだ、そんなふうに思っていた。
でもね、レベルが違うんですよ。「十牛図」で説明しよう。「十牛図」については、ここをごらんくだされ。
http://www.kodaiji.com/entoku-in/tencows/cowflam.html
簡単に説明すると、「悟り」を牛に例えて、「牛を探す」「足跡を見つける」「牛の後姿を見つける」「牛をつかまえる」「牛を飼い慣らす」「牛に乗って家に帰る」「牛を忘れる」「全てをわすれる」「まわりの自然に気がつく」、最後は難しいのだけれど「町に出て人に尽くす」という十段階がある。
ワシャはどう見積もっても第3ステージの「見牛」どまり。ところがその人は「無」を体得していた。「無」を知るということは、第7ステージの「忘牛存人」に達しているのである。
生まれながらに仏性を持っているのか、あるいは人生経験のなかで培ってきたものなのか……。どちらにしてもワシャには牛の尻尾が見えてきたばかりだというのに、とほほ。