親と子

 昨日、ネットでこんな記事を見つけた。「高学歴親が子どもを追い詰める 理論攻めで子どもの逃げ場なし」というものである。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140610-00000008-sasahi-soci
 要するに、高学歴の親は、自分の子供に最低でも自分レベルの高学歴を望む。自分もできたのだから、子供もできるはずだという思い込みも強い。あわせて弁がたつために、自分ばかりが喋って、子供の意見を聞かず、子供に寄りそえていないのが現状だという。ある教育関係者は、「親御さんは、頑張れば何でもできると言う。でも、そうじゃないときもある。そこを認めてあげないと、本来ある力をつぶしてしまう場合もある」と言っている。このリポートには、高学歴親の失敗の事例が並んでいるが、子育てというものはことほどさように難しい。

 6月7日の朝日新聞「be on Saturday」の写真が下北半島の仏ケ浦だった。映画「飢餓海峡」の特集で、撮影の裏話や、映画監督の内田吐夢のエピソードなどおもしろく書いてある。そんな記事が、本棚にあった一冊の本を手に取らせた。南直哉『恐山』(新潮新書)である。
 この中に、恐山をたずねる初老の女性の話が出てくる。
 この女性の父親が、容姿端麗、頭脳明晰、地域の尊敬を一身に集めるような名士だったという。そんな父親に厳しくしつけられ育てられた。結婚も父の連れてきた人と結婚した。結婚しても父親のそばを離れず、父親に追われるようにして自分の家庭と父親の世話をした。父親がアルツハイマーになったが、それでも面倒を見て、都合50年、父親の世話を献身的に続けたのだそうな。その父親が亡くなって、突然、体調を崩し、医者に通ったけれど原因がわからなかった。ただ、時期が時期だけに「おそらく亡くなった父親に起因するのでは」と思い立って、父親に会いに恐山までやってきたということらしい。

 高学歴親もしつけに厳しかった父親も、「愛する対象がそこにいてくれるだけでうれしい」ということに気付かなかったのである。高学歴であろうと頭脳明晰であろうと、そんなことにすら気がつかない親は馬鹿と言っていい。
 南さんは言う。
《「あなたがそこにいてくれるだけで私は本当にうれしいんだ」と本心から言ってくれたとしたら、これは宝です。命を賭けて守るべきものです。金なんぞ問題じゃない。そんな人が五人もいれば、人生納得して死ぬべきですよ。》

 冒頭の高学歴親の子供も、後段の初老の女性も、もっとも愛されるべき親に、そんなことを言われずに育った、あるいは育っているんだろうね。