集中力の是非

 ワシャの書斎の天井は梁がむき出しになっている。そこに1枚の紙が貼ってある。もちろんワシャが貼った。そこには墨痕鮮やかに「集中力!」と書かれた紙が貼ってある。なぜそんなものが貼っているかというと、ワシャには極端に集中力がないので、集中力を養うための自覚を持つために、そこにそう書いて貼り上げておいたものである。どうだろう、20年くらいはそこにあるんだけれど、ワシャの集中力は一向に高まらない。なぜかというと、ワシャの集中力のなさは天性のもので、後天的に何とかなる類のものではないからである。
 そのあたりのことが、作家の森博嗣さんの著書『集中力はいらない』(SB新書)に詳しい。森さんは、ご自身の集中力のなさを肯定的に自覚しておられる頼もしい存在である。
 森さん、集中力のなさをこう弁護する。
《発想は集中からは生まれない》
《常に辺りを見回すような「分散思考」の有用さ》
《ものごとにのめり込まない、あるものを見ていても常に別の視点から見ようとする、同時に逆の立場から考える、自分の抱いた感情や自分の意見に対して、すぐに反論を試みる、常識的なもの、普通のものを疑ってかかる、などなど、まとめれば、多視点、反集中、非常識、もっといえば「天の邪鬼な頭」ということになる》

「天邪鬼」ということに関しては自信がある。この日記を振り返ってみると、17回にわたって自分のことを「天邪鬼」と決めつけている。つまりワシャは自覚する「天邪鬼」なのであり、とするなら多視点、反集中、非常識な、「集中力」と反対の能力が備わっていることになる(エヘン)。

 思い起こせば中学1年の時。授業にちっとも集中せず、余所事ばかりしているワルシャワ少年に、中年の女の先生が業を煮やした。「おまえは精神分裂症だ!」と怒鳴って教科書の束でバチコンとワシャの頭を叩いたのである。今なら体罰と差別的言動で大問題になりそうな話なんですが、その頃は大らかなものですわ。ワシャも叩かれ罵られてもヘラヘラ笑っていたものじゃ。でもね、その先生が看破したように、ワシャの思考が分裂していたことは間違いなく、そう指摘されて「集中力」がないことはいけないことなんだなぁ……と少しは思ったものである。
 書斎の梁に「集中力」という書を貼ったのも、そんなわけで、中1の頃から、そのことを気にしていたのですよ。
 だから森さんの『集中力はいらない』を読んで、目から鱗だった。読書というものはありがた〜いものですにゃぁ。
 森さんはこうも持ち上げてくれる。
「集中力が必要な高学歴は、実はAIに取って代わられる」
要するに、記憶をするための集中力が高学歴の源泉であり、記憶をすること、その記憶のデータベースに基づいた判断をすることというのは、AIがもっとも得意とするところなのだそうな。
 反対に集中しないほうがいいことはAIには難しい。「機転を利かせる」ということである。これはAIにはできない。機転は、人間の頭脳だけがなしえる「ジャンプ力」が必要だからであり、ワシャは自慢ではないが(自慢しているが)、集中力がないので機転だけはくるくると利く。
 時間が無くなって来たけど、『集中力はいらない』から読み取ったのは、「集中力」は必ずしもいいことばかりではなく、「集中しない分散思考」にもメリットはたくさんあるんだということである。集中力のないひとは悲観しなくてもいいのである。