人の顔

 経済学者の小泉信三のエッセイ集『平生の心がけ』(講談社学術文庫)に「国土の姿」という一編がある。リンカーンの話がマクラとなっている。
《リンカンが或る時、友人から推薦された或る人物を、閣僚に起用しなかった。そうして、彼の顔が気に入らない、といった。》
 リンカーンは人を顔で選別したのである。もちろん友人は抗議した。しかし、リンカーンはこう応えた。
「人間四十以上になれば、自分の顔に責任がある」
 おそらくリンカーンは推薦された人物に会って、その表情にやどる卑しさのようなものを感じたに違いない。このエピソードを受けて小泉さんはこう続ける。
《自分の顔に責任がある。一芸に達した人、一業を成し遂げた人の顔は、自からそのことを語っている。少年青年の頃、眉目秀麗といわれた人と、幾十年を距てて再会して、平凡な顔になったと感じることがよくある。また、その反対の、見事な実例を見ることも屡々ある。》
 中年以降になって貧相な顔をぶら下げているかつての二枚目俳優・歌手には枚挙にいとまがないし、輝くようなアイドルだった女性が、険相を呈する例も多い。どちらの連中も絶好期以降の研鑽が足らなかったのだろう。
 女優の宮本信子さんをご覧あれ。「男はつらいよ」に出てきたころは、どこにでもいそうな凡庸な顔立ちでしかなかったが、「あまちゃん」の夏ばっぱはとても魅力的な老女になっていた。サクラ役の倍賞智恵子さんも年を経るごとに角が取れて、2年前くらいに講演会に行って、お顔を拝見したが、70をこえて、相変わらず輝くようにお美しかったことを記憶している。
 ワシャはよく「ワシャは人相を見るものである……」というような書き方をする。これはなにも「人相見」であると言っているのではない。ワシャは繊細なので(笑)、顔立ちににじむ長年培ってきた人生の機微ようなものがわかる。険相の場合、それがよく読み取れると言いたいのだ。
 
 3.11の際に、現場に留まり続け、不甲斐ない本社の幹部連中をしかりつけていた吉田昌郎所長(故人)の凛々しい表情を覚えておられるか。それに比べ、言い訳ばかりに終始していた菅直人のタヌキの屁を嗅いだような顔は対照的だった。
 2〜3日前に原子力規制委員会の田中委員長が記者会見かなにかでテレビに出ていたが、あのしょぼくれた面差しでは、リンカーンは採用してくれないだろう。人間、偽りを言わされるようになると、自分の心に嘘をつくようになると、表情が死んでいく典型例と言っていい。

 小泉信三さん、人の顔を引き合いに出して、私たちの住む国土の話へと展開していくが、そのあたりは、また明日。