後藤又兵衛

 週末になると疲れがたまってくるのかなぁ。仕事中は相変わらず「檄」をとばし、走り回っている。さほど「疲れた感」はない。けれど、翌日に予定がないとついつい布団から出られなくなる。夕べも午後11時半には寝床にはいった。通常なら5〜6時間くらいで起きる。一度、4時頃には起きた。トイレにいってまた寝てしまった。次に起きたのは9時近かった。おかげで頭はかなりすっきりしたわい。

 今日は予定がないので腰をおちつけてネタ探しをする。新聞を寛げてもトランプ大統領のことばかりでピーンとこない。天声人語はそれでも必死にトランプネタを展開しているが、もう食傷ぎみだなぁ。30分くらいコーヒを飲んで、ぼーっとしていたら、友達のZくんの顔が脳裏をかすめた。「そうだ、Zくんのことを書こう」と閃いた。
 彼は人物として優秀である。仕事の能力も高い。正義感のあるまっすぐな男だ……。と、イメージを固めはじめたら、また別のことが頭をよぎった。司馬遼太郎の長編小説の『城塞』である。ワシャはこの作品をすぐれた人間ドラマだと思っている。司馬遼太郎を「古い作家」と決めつける人もいるけれど『城塞』の織りの細やかさは見事と言っていい。ぜひ読んでね。

 さて、この大坂城興亡戦の大絵巻には何人もの人物が登場してくる。その中でワシャは後藤又兵衛という武将が好きである。昨年のNHK大河の「真田丸」では、相川翔が演じていたが、あれは司馬又兵衛ではなかった。あくまで三谷又兵衛で、軽々としてちっとも格好よくなかった。史実を見る限り、もっと毅然とした苦労人で、鍛えられた野戦司令官だった。その点では、司馬又兵衛のほうが実像に近いと思っている。俳優でいうと役所広司あたりの重さが適任か。
 司馬さんの又兵衛描写を記す。開戦前の大坂城、又兵衛が入城したばかりの頃である。シーンは座敷。とおされた又兵衛が縁でくつろいでいる。用意…スタート。
《庭を見ていた。茶っぽい口ひげに陽が溜まり、横顔に精気が満ちている。やや猪首で肩肉が盛りあがり、いかにも腰のすわりがいい。おどろいたことにその衣装は紺の袖無の下の小袖は絹であり、その小袖の模様はなんとダリヤであった。(中略)この当時に流行した南蛮渡来の草花で、天竺牡丹という名で呼ばれていた。それを模様化した小袖が出はじめていたが又兵衛はそれを着ており、齢はおそらく五十を過ぎていようと思われるのに、その華やかな小袖がみごとなほどに似合っていた。》
 ダリヤの小袖が似合う初老の侍。女性の皆さん、どうです?格好いいと思いませんか。

 後藤又兵衛の来し方を振り返りたい。幼少のみぎり、又兵衛は父をうしなう。父の友人であった黒田官兵衛(秀吉の軍師)に引き取られ養育される。長じて、黒田軍の一翼をにない、九州征伐朝鮮出兵で武功を立てた。関ヶ原の合戦にも黒田軍の先手として戦い東軍勝利に貢献している。大名(黒田長政:官兵衛の長子)の家臣ではあるが、大名級の1万6000石を給され筑前国大隈城の城主となった。これは陪臣としては異例の出世と言っていい。ところが又兵衛、1万6000石をぽんと返上して筑前を出奔してしまう。理由は藩主黒田長政との不和であった。
「士はおのれを知る者のために死す」
 長政に離縁状を叩きつけ、又兵衛は野に下った。又兵衛、同時代において筆頭の野戦司令官であったが、長政からの妨害工作をうけ、他家への仕官はかなわなかった。このためあちこちを流浪し、窮乏をきわめ、50代は京で乞食をしていた。最終的に豊臣秀頼の呼び出しをうけ大坂城に入場し、冬夏の二陣を華々しく闘った。
 家康から「播磨50万石をあてがうので、大坂を裏切れ」という誘いを颯々と断って、大坂の野に戦死している。

 Zくんがどうのという話ではなく、いつの時代も実力と評価というものが乖離しているということを言いたかった。