ソチ五輪はじまる(後半は「劣天声人語」)

 雪が降っている。おそらく皆さんのところでも雪でしょうね。北海道佐呂間町に友人がいるけれど、たいへんなことになっているだろう。彼なら「庭にうっすらと積もった程度のものは霜」だと言うにちがいない。でも、雪は雪。雪を見ると、冬の間、ずっとスキー場にこもっていた頃を思い出すなぁ。

 雪を眺めつつ、ソチ五輪の開会式を見ている。選手の入場はことのほかおもしろい。
 プラカードレディとでも言うのだろうか、選手団を先導するロシア女性のコスチュームが独創的だ……というか、ちょっと変だ。まず頭である。今、写真を探したけれど、見つからなかった。でも、ずっと開会式をテレビが流しているので、皆さんも見られたことと思うが、あれは、光背だな。頭から出ているので厳密に言えば後光ではないのだが、仏様とか不動明王の後ろに出ているやつ、あれに見えてしかたがない。それと透明な筒状のプラカードが女性の体を包んでいる。ううむ、斬新なんだけどもう一工夫欲しいなぁ。
 それでも、やっぱり日本選手団が入場してくると感動してしまった。きっと福島瑞穂に代表されるサヨクの皆さんもワクワクしながら見ていたのではないかにゃ(笑)。
 アトラクションもおもしろかったなぁ。「戦争と平和」のバレエは見ごたえがあった。それに続く、赤と黒に象徴されたソビエト時代の創作演舞も、ついつい見入ってしまったわい。入場行進でも、その他でも例の「タトゥ」の曲が使われていたが、ロシアの現代歌手というとそのくらいしかいないのかなぁ。もちろん「チャイコフスキー」や「走れトロイカ」なども流れて、ロシア音楽の厚みを感じさせてくれて、全体としてはいい構成となっている。
 五輪は17日間にわたって開催されるわけだけれども、無事にフィナーレを迎えることを祈っている。

 昨日の「天声人語」がソチネタだった。
《寒い季節こそ人の情けは身にしみる。流行語になった「おもてなし」の最たるものは、能で知られる「鉢木(はちのき)」だろう。降りしきる雪の夜、旅の僧が一軒家に宿を乞うた。貧家だからと一度は断るが、主(あるじ)は僧を捜して連れ戻り粟(あわ)の飯を炊いて供した……》
 寒い夜の「おもてなし」が「暖」であることはあまりにも当たり前で、そのことから能「鉢木」を連想することはさほど難しいことではない。天声人語氏は冒頭の110字を「鉢木」のあらすじでごまかす。そして、やはり無理無理に話を移していく。この無理無理さを見る限り、2月5日にふれた「天声人語」と同じ人だな。
《日本の物語だが》というのは「鉢木」のこと、それに続いて《ロシアのどこか雪深い里にも、似た話が大切にされて伝わっていそうな思いに、ふとさせられる。》と展開する。え、ロシアにもそんな物語があるの?この人、なんの根拠もなしに言っているようだ。雪の降るところなら、ノルウェーでもアイスランドでもアラスカでもいいわけで、ことさらロシアである必要はない。ロシアともってきたのが、後段のソチ五輪につなげるための作為であることはまるわかり。
 極め付きは、文末の「ふとさせられる」ってなんやねん。おそらくこの人「ふと、そんな思いにさせられる」ということを言いたいのだが、少し趣向をこらしたつもりなのだろうが、なんだか違和感があるなぁ。「ふと」は副詞だ。「思いがけず」とか「不意に」という意味である。「させられた」は使役助動詞「させる」+受動助動詞「られる」である。助動詞だから動詞を助けなくてはいけない。つまり、「子供の面倒を見させられた」「……に考えさせられた」「……と思わさせられた」のように、「見る」「考える」「思う」などの動詞に続くのがスタンダードだ。とくに「ふと」は状態副詞なので、主として動詞を修飾するものである。このことからも並びとして「ふと、そんな思いにさせられる」でいい。百歩譲って「そんな思いに、ふと、させられた」のほうがまだいいだろう。「ふとさせられた」では「太らされたんかい!」と突っ込まれるのであ〜る。
 この「ふとさせられた」から以降220字ほど、事実の羅列と2月5日の中日新聞に載っていた記事を丸写しで稼いでいる。大丈夫かいな、この論説委員
 そして意見らしい意見はこれしかない。
《ABC順が世界標準ではないとあらためて気づかされる。》
 結びには、コラムニストの勝谷誠彦さんなら「知ったかぶりの所作」とでも言うのだろう。
《雪の純白を、名状しがたい冬の焔(ほのお)が流れていると表したのは島崎藤村だった。選手の高揚感と躍動のイメージが文豪の言葉に重なっていく。物語の各ページも、まだ真っ白である。》
 島崎藤村の「三人の訪問者」を出してきた。青空文庫にある。短いので読んでみてくだされ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/50052_38601.html
「飯倉だより」という文章集の巻頭にある創作に近い小品である。確かに、「雪」を「冬の焔」と喩えてはいるが、むしろ高揚感、躍動につながるのは、光沢のある若枝や新生の芽ではないだろうか。どう読めば、文豪の喩えた「雪」とソチオリンピックの選手が重なっていくのだろうか。そして文豪の「雪」に引っ掛けて洒落たつもりの「真っ白である」も情けないほど白っぽい……じゃない素人っぽいなぁ。
 それに、このあたりの枯れ枝と新芽の話は、2月4日の天声人語(ワシャの日記では2月5日に触れています)の徒然草の話《葉が落ちてから新しい葉が芽ぐむのではない。新たに兆してくる生命力によって秋の葉は落ちるのだ》とかぶってくる。たぶん一緒に見つけたんだね(笑)。捨てるのが惜しくて、ついつい使ってしまったというお粗末。ホントにこんなレベルで大丈夫か。