有無

 哲学者の中島義道さんの著書に『私の嫌いな10の言葉』(新潮文庫)がある。その解説を「たかじんのそこまで言って委員会」でおなじみの宮崎哲弥さんが書いている。中島さんの本文ではなく、宮崎さんの解説を引きたい……のだが長くて引けない。要約をする。
《人はどうせ死ぬ。どんな偉大なことを成し遂げても「死」という冷厳な事実の前には灰塵に等しい。「百億年すれば全部なくなる」のである》
 このことに宮崎さんは幼稚園児のときに気がついた。凄いね。たしかに誰もが「死」について恐怖する。だから宗教が存在し、天国や浄土がまことしやかに説かれる。
 ところが幼稚園児の宮崎さんはもう一歩進んで悩んだ。
《霊やあの世があったとしても百億年すれば朽ちる。もっとも恐ろしいのは、神としてであれ、霊としてであれ、天国においてであれ、永遠に生きることだ。死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのはそれと等しく恐ろしい》
 浄土に行ったとしても、存在し続けるというのはとてつもなく恐ろしい。そのことが言いたくて宮崎さんに登場してもらった。
 夕べ、読書会があって、そこの場で「浄土」の有無について議論になった。曹洞宗のワシャは「無い」派で、浄土真宗の友達は「有る」派である。おもしろい議論だったが、結局は平行線だった(笑)。
 ワシャは、宮崎さんと同様に、浄土とはいえ「有り続ける」のは怖い。たとえば手塚治虫の『火の鳥(未来編)』にこんな話がある。火の鳥の生き血を飲んだがために、死ぬことができないマサトという男、延々と行き続け、ある時から彼は「神」になるのだが、何十億年も死ねずに苦しみ続ける。
 マサトの友人や、いやいや友人どころではない、同時代に生きたすべての人、人ばかりではない、生きとし生けるもの、その後に生まれた生物すべてが消え去ってもマサトは生きていなければならない。この苦しみは想像を絶する。有っても苦、無くても苦、ならばさっぱりと何も無いほうが面倒くさくなくていい。
 人はいずれ「無」に帰すものと思っている。だからこの瞬間を輝いて生きなければもったいない……そう思いたい。