はねっ返りの美学

 7月10日の日記に、松平定政という大名について書いた。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130710
 7月18日には、旗本の水野十郎左衛門のことを書いた。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130718
 いずれも、変わり者だが、颯爽とした生きざまを見せた武士である。

 もう一人、変な武士を紹介したい。堀田正信という大名である。これは本当に変わり者というか、エピソードなどを読んでいると、けっこう生真面目なタイプで、前述の二人のような遊びがない。「義民の佐倉惣五郎」に登場する殿さまで有名な人なのだが、その話はまたの機会にゆずることにする。とにかく「変な武士」ということと、11月3日ということで取り上げる。

 まずは、尾張国津島から話を起こしたい。
 名古屋市の西に津島という町がある。中世は、木曽川デルタの中にある港町で、海運・水運で栄えた町だった。織田信長の父である信秀がこの町を支配下においた。津島の繁栄により財力をつけた信秀が尾張半国を切り取ったというわけ。つまり信長の飛躍の原点が津島港にあったわけだ。
 この津島に堀田という地侍の家があった。元は斯波武衞(武衞は官職名)に仕えたとあるから、あるいは織田家とも一時期は肩を並べていたのかもしれない。それが織田信秀の台頭とともに、その旗下に組みこまれる。信長の代になり、堀田家は前田利家の隊に属せしめられ、その後、浅野長政の与力や、小早川隆景に仕えたりしている。堀田一族、織田家創業からの直臣ではあるのだが、家の変遷をみると、歴代の当主に将となるだけの力量はなかったようである。
 あわせて運もなかった。あの関ヶ原の寝返り大将の小早川秀秋にくっつけられてしまった。結果、秀秋の死とともに小早川家を離れ、家康になんとか500石で番士として拾われる。大坂の役で多少の活躍をし300石の加増を受け、その後、200石を増やし千石の旗本になった。
 徳川三代将軍の家光のときに、堀田家に運のいい男が登場する。堀田正盛である。武勇に秀でていたということではないが、気働きは人一倍できたのだろう。これが運を引き寄せたともいえる。
 家光の乳母の春日局に縁があった。この春日局のお引きによって家光に近侍することになる。ここで家光に気に入られた。あるいは寵童だったのかもしれないが、とにかく正盛はめざましい昇進をとげる。近侍して6年で大名になり、その後、3万石、10万石、最終的には下総佐倉という江戸に極めて近いところで15万石を食む。千石から15万石ですぞ。年収1000万円が15億円になったということだわさ。凄いね。
 正盛の凄さはそれだけではない。家光が亡くなった際に、後を追って殉死したのである。家光にしてみれば、これほどかわいい家臣はあるまい。命を賭して仕えているのだから、栄進も当然と言えば当然だろう。

 この正盛の長男が冒頭に記した正信である。正盛亡き後、当然のことながら佐倉藩を相続する。15万石であるから大大名ということになる。それも江戸直近、幕閣の中でも高い位置にいる。ところが生真面目な性格が祟ったか、父のようには重用されなかった。その不満が、四代将軍の家綱への上申書というかたちで吹き出した。これは家綱への不満というよりも、家綱を補佐する松平伊豆守への反抗と考えたほうがいいだろう。とにかく、正信、上申書を幕閣に突き付けて、さっさと佐倉に帰ってしまった。これが無断の帰国だったために所領を没収され実弟にお預けの身となってしまう。幕政批判のために15万石を捨てたわけだ。これも凄いなぁ。
 そして後年、正信も父と同様に将軍の死を追って自栽してとげた。親子そろってすさまじいというか、現代人には到底理解できない生き様ではある。

 この堀田正信の改易処分が行われたのが万治3年11月3日だった。
 すでに徳川の治世が四代も続いている。大名も旗本もすでに戦国の風を忘れ、官僚化している。官僚化した侍は、ひたすら無事がほしい。大過なくすごせれば、禄を頂戴し、その禄を子孫につないでいけるのである。ここからは司馬さんの文章を引く。
「息をするのにもしずかに息をし、荒い言葉ははかず、他人に迷惑をかけられまいと始終気をくばり、おのれの行儀をよくし、ひとの不幸は見てみぬふりをしてこっそりと座をはずす」
 そうすれば、御家安泰、家内安全ということが保障される。そういった時代、環境の中で正信の生き方は、変ではあるがカッコイイと思う。