黒田官兵衛(かんひょうえ)

《毛利軍についての秀吉の戦場外交は、一応おわった。あと、本能寺の一件にやがて気づくであろう毛利軍が、羽柴軍に対して追撃するかどうか、秀吉の運ひとつにかかっている。
(そのときは、そのときのことだ)
 人間はそれ以上のことを考えても甲斐はない。官兵衛は、そうおもった。》

 司馬遼太郎の『播磨灘物語』、中国大返しの一節である。ワシャはこの場面が好きだ。織田信長の悲報に接し、秀吉が、黒田官兵衛が、毛利方と綱渡りのような外交戦を繰り広げ、敵将の切腹で講和にこぎつけた。しかし、信長後の織田政権を握るためには、光秀を討つべく備中高松から全軍を東に戻さなければならない。そのことを毛利軍に悟られれば、追撃され秀吉軍はおそらく居城の姫路城に戻る前に、芝でも刈るように斬り取られてしまう。ここが天王山である。
 おっと、天王山は、これから秀吉が向かう決戦の所だった。そこで光秀とこの山の占領を争い、秀吉がこの山をおさえた。このことが両軍の勝敗を決したことから、この後、勝敗の分かれ目を「天王山」と言うようになる。だから、中国大返しの秀吉軍、毛利軍の勝敗の分かれ目ではまだ使えない言葉なのだ。
 そんなことはどうでもいい。
 要は、人事を尽くしたなら、あとは運を天にまかせ目標に向かってことに当たればいい、という諦観の境地が見事に描かれている。これは司馬作品の中に登場するよき男の共通項と言っていい。颯爽とした男たちは、皆、あきらめがよく、うじうじと思い悩んだりしないのである。
こういった高々とした男たちの背中にワシャの人生は何度助けられたことだろう。

 さて、黒田官兵衛、秀吉出世双六の後半の大軍師だったことは有名である。中国大返しをふくめてこの軍師がいなければ秀吉に天下は転がり込んでこなかっただろう。
 だが、秀吉は官兵衛をはっきりと冷遇する。一介の野戦司令官でしかない加藤清正福島正則、吏僚の石田三成増田長盛より低い18万石を、辺境の九州豊前中津であてがっただけである。

 これについては谷沢永一氏がこんなことを書いている。
黒田官兵衛にとどまらず、何程かの才能を内に抱く者が、生を享けている全期間を通じて、打開する術を見出し得ず苦しめられるのが、他者の嫉妬である。(中略)世に嫉妬ほど、万人に例外なく共通で、消去あるいは減少させるべくもない情念は見出し難い。》
 策士黒田官兵衛の、その企画力・発想力が秀吉のそれを凌駕していたことが悲劇だった。秀吉に嫉妬されていることを感じ取った官兵衛は、さっさと隠居届を出して、表舞台から消える。その後、秀吉が亡くなり、豊臣恩顧の大名同士の諍いである関ヶ原の合戦が官兵衛54歳の折に勃発した。
 その頃、豊前中津で子供たちと日向ぼっこをするように隠居生活を送っていた官兵衛は、「開戦」の報を受け、縁側から戦場に降りた。無理やり兵をかき集め、わずかな時間で九州北部を平定してしまう。
 惜しむらくは、一連の関ヶ原の合戦が短期間で決着がついてしまったということである。「百日あれば」と官兵衛は言った。
「百日あれば九州全土を平定しその兵力をもって中原に鹿を追えたものを」
 しかしあっけないほどの家康の勝利を見て、「これは勝てぬ」と思ったのだろう。さっさと兵をたたんで豊前中津に隠遁をした。ここがあっさりとしている。官兵衛が家康に与させた息子の長政は、大功を得て筑前国に52万3000石の封土を与えられる。その後の黒田家の隆盛はご案内のとおりである。
 最後の賭けが空振りに終わった官兵衛は、その後、4年間を福岡で送り、58歳で身罷る。実に颯々とした人生であった。うらやまし。