国史大辞典のつづき

国史大辞典を予約した人々』の中から本の行方を考えたい。
 この本が取り上げているのは、初版の『国史大辞典』が発行される前に予約した人々の単なる名簿である『予約者芳名録』である。この芳名録は予約者数の10,240部印刷をされ、予約者全員に配布されている。ざっと言えば初版の『国史大辞典』と同数ほどは存在することになる。
 しかし、そうはうまくいかない。『国史大辞典』については、あちこちの公立図書館や大学図書館に現存しているが、その芳名録となると、そもそも利用者がおらず、利用されなければ本の扱いもぞんざいになってしまう。きっと居場所もなかったに違いない。惜しいことだが、長い歳月の間に失われていった。著者が調べたところによると、完全な状態で現存しているのは、最初に著者が芳名録に出会った群馬県藤岡市の柏旅館と、もう1つの図書館のみとなっている。
 その図書館が、愛知県西尾市岩瀬文庫である。この図書館、西尾の実業家が一人の手で造った。約8万冊の書籍を私設図書館に集めた。そしてそれを住民に開架したのである。
 明治の末に、草深い三河の片田舎に全国から本を掻き集めた奇特な人物がいるというだけで、西尾に文化の香りが立っているといってもいいだろう。
 
 芳名録から『国史大辞典』の購入先を見てみよう。
『予約した人々』の登場順だが個人では、与謝野晶子高村光雲岩崎弥之助柳田国男伊藤左千夫などなど著名人がずらっと並ぶ。変わったところでは、浅草にある神谷バー創始者である神谷伝兵衛の名もあるそうだ。ちなみにこの人物も西尾市一色町の出身である。ううむ、ますます西尾の知的レベルの高さがうらやましい。
 学校では、東京の第一中学校、開成中学麻布中学、大阪は北野中学、堂島高等女学校。神社仏閣では、法隆寺厳島神社……。

そんな中にこんなエピソードがあった。少し引きたい。
《東大の農科大学で予約購入したと思われる本が戦後、名古屋大学に移されているようなのだ。》
 現在、東京大学には本編など何冊かの『国史大辞典』が確認されているが、農科大学で購入した分が失われている。つまり前述のように名古屋へ移されたと考えるのが妥当だろう。佐滝さんも「名古屋大学農学部の設立を手助けする本の一冊として名古屋まで旅をしてきたと推定できそうだ。」と言われる。
 さて、『国史大辞典』は本当に名古屋まで旅をしたのだろうか。ワシャはそれに対しては少し懐疑的である。名大農学部の設置条件として文部省から付けられた条件「研究図書の整備」がある。これをクリアするために、東大農学部より寄贈された本の中に『国史大辞典』があったこともまちがいなかろう。それは1951年、昭和26年のことである。
 ワシャの手元に、昭和26年1月1日の愛知県安城町の「町報」がある。冒頭の町長の「年頭の辞」の中に「名大農学部開設の援助」という発言があった。さらに市史をひもとけば、昭和24年から安城町は大学誘致に動き始め、2年後に「日本デンマークである安城」に文部省から認可が下りたということである。
 なにを言いたいのかというと、東京大学を出た『国史大辞典』は名古屋まで行かずに安城で途中下車して、そのまま新設間もない安城の名大農学部の図書室に運ばれたと見るのが自然ではないかということである。

 蛇足になるが、名大農学部誘致に、そのころ盛隆を極めていた安城芸者が一役かったのも間違いないだろう。文部省の役人も県の担当者も鼻の下を伸ばして安城駅頭に降り立ったのは想像にかたくない(笑)。

安城の歴史