備後福山藩

 戦国時代、じつに破天荒な漢(おとこ)がいた。早乙女貢『血槍三代』(集英社文庫)の主人公水野勝成である。その性格ゆえに父にも疎まれ、諸国を流浪することになる。豊臣秀吉佐々成政小西行長加藤清正黒田長政に仕えたという経歴は、勝成の力量の高さを物語っている。いくら戦国の世とはいえ、力のない武将が、これだけの大大名に次から次へとは仕えられない。

 慶長5年というから、関ヶ原の合戦の年に、従兄の徳川家康の仲立ちで父の忠重と和解している。その後、刈谷三万石を継いで、関ヶ原の合戦では大垣城を降し、その勇名を轟かせた。
 司馬遼太郎の長編に『城塞』という大坂冬の陣、夏の陣を描いた大河小説がある。その後半に「四天王寺」という章があって、その中で勝成は、動かぬ諸将に苦労する司令官として描かれている。
大坂合戦の後、家康は藤井寺、誉田の戦いでの勝成の戦功を認め、三万石を加増して大和郡山に転封した。関ケ原で一万石増やしているので、この時点で七万石の大名ということになる。
その5年後、秀忠からさらに三万石の加増を受けて、西国鎮護のために備後福山に移る。水野家は福山で数代をかさねるが、元禄10年に当主の勝岑(かつみね)が夭折し、継嗣断絶となり、戦国の荒武者、水野勝成の系譜は福山で終焉した。
ただ、幕府は「先祖の筋目を被思召」て、勝成の名跡を伝えるために、勝成の系譜から人を選んで下総結城藩に封じている。これも勝成のおかげと言えるだろう。

昨夜、某所で、勝成に詳しい方と飲む機会を得た。その人と歓談していて、宮城道雄の話になった。あの「ひねもすのたりのたりかな」の宮城道雄である。彼の父は、福山市の出身であるという情報をいただいた。ほう、宮城道雄の系譜は備後福山にあったのか……。
 あ、宮城道雄といえば、その最期を刈谷の病院でむかえているではないか。
 昭和31年6月、盲目の宮城道雄は、大阪の公演へ向かう途中、刈谷駅付近で夜行急行列車「銀河」から転落して、担ぎ込まれた市内の病院で死亡しているのだ。
 ううむ、こんなところにも刈谷と福山の因縁があった。