徳川家康の辛抱

 大きな組織のトップとして、どのようにすれば案件を円滑に進めることができるだろうか。一例として、家康が実行した一大事業の「関ヶ原合戦」を見てみたい。
 家康が隠忍自重の人であったことは敢えて説明するまでもないだろう。彼は幼少の折からその境遇に耐えに耐えてきた。信長に仕え、格下の秀吉にすら臣従した。そして、その秀吉が慶長3年に身罷る。ついに武家において家康の上に存在する者はいなくなったのである。しかし、彼は天下統一の大目標に向かって慎重だった。いつ何時、寝返るかもしれない豊臣恩顧の大名たちに腰を低くして付き合い、とくに荒大名の福島正則あたりには、最大限の気を配った。家康は、国家安寧の禍根である豊臣家を除くのに、関ヶ原から14年もの歳月を耐え忍んでいる。すべての段取りを終え、満を持して大坂に兵を進めたのは、家康73歳、その死のわずか18ヵ月前のことでしかない。
 事を成すというのは、家康ほどの傑物でも、ことほど左様に調整の時間を要するということである。過激な発言、憶測の発言、準備のない発言に左右される者は、必ず滅んでいく。それは歴史に深く刻まれているではないか。

 関ヶ原の合戦は豊臣と徳川の巨大派閥争いだった言えよう。そこから学ぶべきものは多い。
 軍師の島左近は、この度の合戦を「時期尚早である」と石田三成に説いた。しかし、三成は焦って戦を仕掛け自滅した。優柔不断な金吾中納言は西軍から東軍に寝返えった。このために家康は勝ちを拾うのだが、その卑怯さが家康や幕臣に疎んじられ、結果として大封を失う。福島正則もそうだ、関ヶ原の合戦で活躍し、東軍勝利の一番手柄ではあった。しかし、戦後、そのことを吹聴しすぎて孤立していく。 関ヶ原で先陣をつとめた猛将も、大坂の陣では参陣すら許されなかった。江戸に留め置かれたのである。
 その後、家康が死に臨んで、福島正則だけを召し出した。『徳川実記』にはこうある。
《両三年も在国にて休息すべし》
 要するもなにも、広島に帰れと厳命しているのだ。このあたりを司馬さんの筆はこう解いている。
《そこもととわしとは、とりわけ昵懇(じっこん)であった。しかしながら大樹(秀忠)とそこもととは格別の仲ではない。わしの死後、二三年ほども国許にかえるべし。帰国して物など考え、もし大樹に不満があって異慮を思い立たば、すみやかに兵をあげられよ》
 家康は絶対に安定した徳川の天下を確信して、初めてバカを切ったのである。ここまで我慢したのだ。それに比べてば1年や2年の辛抱など大した話ではない。