お盆とタバコ

 盂蘭盆会である。13日の夜、門口で迎え火をたき、盆迎えをする。14日、15日と精霊は家にとどまっているので、ワルシャワ家では14日に檀家寺から和尚さんに来ていただいて、ありがた〜いお経をちょこちょこっと上げてもらう。和尚さんといっても、代が替わり息子のほうだから、実はワシャのほうが年上だ。それにワシャは、呉智英さんの『つぎはぎ仏教入門』(筑摩書房)などを読んでいるので、仏教についてちとうるさい。息子はそのことを知っているので、そそくさとお勤めを済まし「今日は他もございますので」とすぐに帰ろうとする。
「まぁそうあわてずにお茶でも」と引き留めるのだが、昨日は逃げられましたね(笑)。

 寅さんシリーズの第11作「寅次郎忘れな草」、リリー(浅丘ルリ子)との出会いの巻である。この作品の冒頭が、寅の父親の二十七回忌から始まる。とっかかりは寅屋の座敷で御前様とさくらや竜造(おいちゃん)たちが座っている。

御前様「とらやさんの四角い顔の燕はどうしたかな、今年は帰らんのかな」
さくら「さア……自分の巣を忘れちゃったんじゃないでしょうか」
御前様「今日は父親の二十七回忌なんだから」
竜造「とんでもないですよ。あの親不孝者がそんなことを覚えているもんですか」

 そこにひょっこりと寅次郎が帰って来る。ちょいとした笑わしがあって、その後、寅も神妙に仏前に納まる。御前様のありがた〜いお経が始まると寅次郎がじっとしていられずに一座を笑わせたために、御前様にポカリとやられるシーンは客席も大笑いだった。
 
 でもね、寅次郎の気持ちはよくわかる。昨日のお勤めもさして長いものではなかった。せいぜい15分程度のことだから我慢しようと思えば我慢できたのだが、どうしても退屈だから、ついつい甥っ子をからかってしまう。声を出さず、物音も立てず、ワシャと突っつき合いをしていると、じいちゃんに「メッ!」と睨まれたものである。寅次郎の家族とは違って、ワシャの家は、クソガキはワシャと甥っ子くらいのものなので、全体には波及しなかったが、法事ってとても退屈なんですよね。

 おっと、のんびりとお盆の回想をしている場合ではなかった。このニュースは見逃せない。今日は早起きしておいてよかった。まだ書く時間が1時間ほどある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130814-00000101-spnannex-ent
 日本禁煙学会がジブリにクレームをつけたのである。
 禁煙原理主義者の発言にケチをつける前に、これだけは言っておく。ワシャは非喫煙者であり、傍若無人な喫煙に対して常に戦うものである。その上で言いたい。
 映画というものは嘘を並べればいいのではない。なるべく現実に近い状況を描きながらそこに少しのフィクションを混ぜ合わせていく。これが大切なのである。
 ワシャは、宴席などで無遠慮にタバコをふかしている輩に対しては強く指導をするほどタバコが嫌いだ。でもね、今回、「風立ちぬ」を鑑賞して、不快になったことはない。タバコが自然に映画の中に溶け込んでいたのである。ワシャは喫煙を嫌う者ではあるが、理不尽な要求はしない者でもある。結論から言ってしまえば、日本禁煙学会の言うようにタバコを「風立ちぬ」の映像の中から排除した場合、この映画の40%が味気ないシーンとなっただろう。そんな映画、つくってられるか。バカも休み休み言え。

 日本禁煙学会がジブリに突き付けた要望書を見てみよう。詳細はこちらで見てね。
http://www.nosmoke55.jp/action/1308kazetatinu.pdf
《肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写は問題です。夫婦間の、それも特に妻の心理を描写する目的があるとはいえ、なぜこの場面でタバコが使われなくてはならなかったのでしょうか。他の方法でも十分表現できたはずです。》
 まず言いたい。「他の方法でも十分表現できたはずだ」と言うなら、その代替え案を示せよ。少なくともワシャには、映像となっているシーン以上のシナリオは書けない。百年に一人といわれる天才宮崎駿が練りに練ったシナリオにケチをつけるのであれば、それを凌駕するシナリオを示してから言え。素人がプロに対してここまで偉そうにモノを言う社会になってしまったのはひとえに「人はみ〜んな平等なんだ」と言いつづけてきた左巻きの皆さんのおかげです(泣)。
 この場面は、ストレスを抱えて疲れ切っている夫、結核でもう助からないことを悟った妻、ここはその二人が命を賭けた恋のシーンなのである。現実に、タバコが妻の肺に悪い影響を与えるのかもしれない。しかし、妻は仕事をしている夫の和らいだ表情を、燻らす紫煙を心に刻んでおきたいのである。その香りまで記憶しておきたいのである。このあたりの機微は原理主義者の皆さんには死ぬまで理解できまい。

《また、学生が「タバコくれ」と友人にタバコをもらう場面などは未成年者の喫煙を助長し、国内法の「未成年者喫煙禁止法」にも抵触するおそれがあります。》
 ここで言う学生というのは、東京帝国大学生です。彼らの年齢は示されていませんが、当時、帝国大学学生は一人前の大人でした。あるいは20歳を過ぎているかもしれません。とするならば喫煙をすることはなんら問題なく、もらいタバコをしようが、シケモク拾いをしようが一向に構わないのである。

《公開中のこの映画には小学生も含む多くの子どもたちが映画館に足を運んでいます。過去の出来事とはいえ、さまざまな場面での喫煙シーンがこども達に与える影響は無視できません》
 ワシャは小学校の時に「カサブランカ」を観に行った。ハンフリー・ボガードは煙草を吸いまくっていたが、それでワシャがタバコを吸うようになったという事実はない。子供は子供なりに考えていくものである。そんなことまで原理主義者の皆さんに心配してもらわなくていいわさ。それに影響が出るというなら数値で示してほしい。根拠のない決めつけは止めてくれ。

《このお願いは貴社を誹謗中傷する目的は一切なく、貴社がますます繁栄し今後とも映画ファンが喜ぶ作品の制作に関わられることを心から希望しております。
どうぞその旨をご理解いただき、映画制作にあたってはタバコの扱いについて、特段の留意をされますことを心より要望いたします。》
 言葉は丁寧だが、言っている内容は脅した。映画を製作するうえで、タバコを出すな、女性の裸を出すな、銃は撃つな、人は殺すな、差別用語を使うな……などと注文をつけ出せば、多分、映画は滅びる。文化は死ぬ。この学会は、言葉狩りならぬ行為狩りを始めたということだ。これを許してはいけない。